夫婦のパートナーシップにとって大事だと思うもの(なお→みずえ)

みずえさん

 

こんにちは!

最近新しい仕事を始めたので、書くためのまとまった時間がなかなか取れず、随分間があいてしまいました。

私はゆっくり考えたり書いたりする時間を取らずにタスクに追われて頑張れるのは、せいぜい一週間が限度だ、と分かりました。

それ以上になると汚れた部屋の中で暮らしているみたいな落ち着かない、やさぐれた気持ちになります。

早いとこ、新しい日々のルーティンを構築しなければと思っているところです。

 

 

お返事が書けない間も夫婦間のパートナーシップについて、折に触れてつらつら考えていました。

みずえさんのお話、分かるなあと頷いたり、自分にはない視点を新鮮に感じたりしながら読ませていただきました。婚活中のお知り合いの話も興味深かったです。

 

趣味や性質は正反対。でも、互いに言いたいことを気をつかわず言い合えて、違いは違いのままに、今では一番の理解者として、生活面の協力関係も成立しているみずえさんと夫さんの関係は、一緒にいてなんとも楽ちんで心地良さそうです。

みずえさんは私の夫婦関係をうらやましいと書いてくださっていましたが、娘に言わせれば「(私たち親を筆頭に)周囲の結婚している大人たちは皆何かしら不満を抱え、幸せそうに見えない。結婚なんてわたしゃしたくないね」ということだそうです。

子供から見てそんな夫婦ですので、全くほめられたものではないです。

 

ただ、みずえさんの夫婦の話を読ませてもらってしみじみ思ったのですけれど、

夫婦とは、偶然の縁で一緒にいることになった他人とかなりしぶとくあきらめず、途方もなく地道な共同作業を生涯かけてやっていくことであり、何はともあれなかなか尊いことではなかろうか、って。

その反面、あまりポジティブではない意味で結婚を継続する理由にもなるとは思いますが。

つまり、夫婦のパートナーシップとはこんなにも手間ひまがかかりめんどくさいことなので、相手を変えて何度もトライできる気が、とてもじゃないけどしませんよね、という・・・。

結婚するより離婚する方が何倍もパワーが要るとはよく言われることですが、どんな夫婦関係であっても、これまで二人の間で積み上げてきたものをリセットする時の重たさたるや、身動きが取れぬほどだろうと想像します。

それは確かにみずえさんの書かれていた通り、「恋愛のときめき」みたいなふわっとした世界とはだいぶ次元が違う話ですよね。

 

私にとって夫婦関係って、不器用なつぎはぎで使い勝手の良いように妙に細かくカスタマイズされた、自作の手芸作品みたいなイメージです。

尊いものもくだらないものも一緒くたになっていて、不恰好で他人に見られるのが恥ずかしいような代物なんだけど、この世にひとつしかないし、どこか愛おしいような感覚もあり、簡単には捨てられない、みたいな。

二人の間で長い時間をかけて、互いに身体の一部として血肉化された関係ゆえ、離婚することは、人によってはその間生きてきた時間を丸ごと捨て去るようなきつさをもたらすかもしれません。

 

そういう抜き差しならぬ関係を互いの間に築くのが夫婦関係なのだとしたら、夫婦のパートナーシップに不可欠なものとは何なのでしょうね。

婚活中のお知り合いもそうですけど、今ではマッチングアプリで相手を探すのはごく普通のことになってますよね。

私の若い頃はまだ「出会い系サイト」という言葉しかなくて、ちょっと怖いイメージでしたが、今は新しいSNSを始める感覚で、とりあえずアカウント作っとくか、みたいな気軽さなのでしょう。

 

もし、私が今のような情報ありきの世の中で婚活をするとしたら、石橋を叩き過ぎて、そのうち全てが嫌になって放り出していそうです・・・。

条件から付き合う相手を絞り込んでいく、という流れの中で人と知り合って、信頼関係を築いていける気がどうしてもしません。

履歴書を書いても、その中に自分自身がいる気が全然しなくないですか?

プロフィールってなぜかそうなってしまうもののような気がします。

それでも、いざ条件が目の前に提示されれば、自分も比較検討して、自分にとって悪いよりは良さげに思える条件の人と会おうとするにちがいないのですが、そのプロセスの中で大事なものを知らずに捨ててしまっていて、結局自分に合わない間違ったカードの中から焦って選ぼうとする、みたいなことになっていそうです。

一見フラットな「条件提示」みたいなプロセスがあることで、判断基準がぶれ、直感が鈍り、かえって自分にとって間違った相手を選んでしまう可能性が高まりそうだと感じます。あくまで自分の場合ですが。

 

結局、私がパートナーシップにおいて大事と考えるものは、数値化・言語化できる条件の外側にあり、それを持っている人と持っていない人がいるとあらかじめカウントできるようなものでもなさそうです。

お知り合いが言うところの「生活感覚や家事スキルが同程度な人」というのも、実際のところ、特に子供が生まれたらどういう運営になるかは暮らしてみないと分からないのが難しいところですね。

家事や育児の分担問題は、スキルが先天的な資質みたいに独立して存在するというよりは、双方の考え方と関係性の中で定まってくる部分が大きいのだろうと考えます。

「家事は妻にやってもらって当然」という考えの人なら、いくら家事スキルが高くても何の意味もないですしね!

私の場合で言うと、夫が何を言ったとか何をしてくれなかったとかいう以前に、自分は経済的に養ってもらっているのだから、妻だから、母だから、女だから、自分が黙って余計に担うのが仕方ないのだ、と自分で自分に呪いをかけてしまっているところがあります。

果たして現実がまさにそのようになっていて、怒りながらでないと自分の思いを主張できなかったりする。

自分で自分を低く見積もってしまうことへのやるせなさや情けなさが、強い怒りの根底にあると感じることがあります。

 

 

で、

私が今の時点でパートナーシップにおいて大事なんじゃないかなと思っていることは、こんなことになりました。

ひとつめは、ときめき(意外にも!)。

ふたつめは、匂い。

みっつめは、土台。

です。

 

今回自分を振り返って考えてみると、ときめき、わりと大事かも、と思いました。

「恋愛の」と限定するのは確かにハードル高すぎですが、互いに好ましいと感じられる人であることはそれなりに大事かもと思います。

世間的にイケメンかどうかとかではなく、後ろ姿ににっこりできるような好ましさというか。

そこには服装や身の回りのもののセレクトや、清潔さ、人やものとの関わり方なども含まれると思います。

そういう部分が心地良くしっくりくる、一緒にいて浮き立つかんじがあるかどうかって、表面的なようで、実は結構大事だと思います。

 

匂いが嫌いでないかどうかは、かなり重要だと思います。

わざわざ挙げるまでもないことかもしれませんね。

匂いが嫌な人と一緒に居られる人っていませんもんね。

私は、パートナーに限らず、親密な関係性の相手とは、五感や直感に相当任せている気がします。

特に匂いは、自分にとって間違っている人かどうかを身体が教えてくれる。嗅覚は正確なセンサーだと思います。

 

そして、価値観というとやや層が浅いかんじがするのですが、互いの「土台」がすっと了解しあえることが肝要な気がします。

それは大上段で語られる理想のようなことではなくって、日常的な仕草、ほんの些細なサインとしてあらわれるようなことです。

難しく考える必要はなく、同じ土台を共有する者同士は、一緒にいて無性に楽で、居やすく、無理がないはずだと思います。

話がすっと通じるし、自分を偽る必要がないから。

まさにみずえさんご夫婦のように。

「気」が合っている、という感覚が大事だと思います。

逆に、その心地良さを感じられない人とは、どんなに理想的でも尊敬してても、長期的なパートナーシップを築くのは、かなり難しそうです。

これだけは譲れないという土台の部分に共鳴し、尊重し合えることは私には重要です。

それは全ての話の根っこにつながってくることだと思うからです。

 

 

今回、夫婦のパートナーシップについて考える中で、すごく思ったことがあります。

それは、人は年を経ることで変化するということ。

私自身、相当変わったなあと感じます。

3児の母になり年齢も重ね、外見も趣味も生活感覚も家事スキルも考え方も色々変わりました。

20代の頃の自分には想像もつかない自分を生きています。

夫も、出会った頃とはかなり変わりましたし、彼がこんな風に変わっていくことを全然予測できなかったです。

長く一緒に暮らす中で、避けがたく互いに影響しあい、良くも悪くも互いに染まりあっていったと思います。

 

人が生きていく中で、いろんな出会いや思いがけない出来事があり、何かに打ち込んでみたり、飽きてやめたり、病んだりもし、考え方や価値観は常に変容していく。

自分も相手も変わっていくし、この先自分がどう変わるか本人にさえ分からない。

同時に、時代や社会情勢も変化し、それに伴って世の中のスタンダードも変わっていく。

予測不能なことばかりだし、変化のスピードはますます早まっています。

 

そういう意味で、結婚生活について偶然や運の良し悪しから逃れることはできないし、誰かに言える確かなことなんて何もないといえます。

あくまで自分の場合はこうでした、ということしか。

人生には、不確定要素が多すぎるから、人間が制御するのは無理ですね。

 

今回挙げた「相手を好ましい存在だと思える」「生理的にしっくりくる」「土台を共有している」だって、結構大きく出たね感はあります。

これらでさえ、人間やってたら変化していくものですし。

でも、このことを心の隅に留めて、自分も相手にとって好ましい存在であろうとしたり、けんかしたり対話したりしながら共に土台を磨いていくということが、夫婦の共同作業ということになるのかなと思います。

 

 

具体的なような、抽象的なような話に終始しました。

どんなにはたから見ておしどりカップルに見えても、どんなに練れた人であっても、人と人が共に暮らしていく中で軋轢は避けがたく、誰しも不満や怒りを抱えるものだと思います。

そこに加えて、いろんな変化やアクシデントや飽きなどが降りかかってきて、関係はいつだって揺らぎまくる。

でも、人間はひとりでは生きていけないから、なんとかパートナーや家族や仲間と協力しあって生き抜いていかねばなりませんよね。

 

その時に、言葉なくただハグし合える人であること。

そして、色々間違っても、合わなくても、土台だけ共有していれば、対話が何とか可能になる。

対話が不可能な相手とは、最終的には「戦争」になるしかありませんから。

究極大事なのはそこなのかなあ。

今のところはそんな風に考えています。

 

 

まとまりのない長い文章になってしまいましたが、もうこのままえいっと送信してしまうことにします。

こちらから次に繋がるパスは今回は投げませんので、またお時間のある時に最近の関心ごとなどについて聞かせてもらえたら嬉しく思います。

 

今日は少し肌寒い曇り空ですが、桜が満開なので、これからお花見弁当を持って公園に行ってきます!