葉桜の季節に思うことなど(みずえ→なおさん)

なおさん、お花見いかがでしたか。

今年の桜は、なかなか開花せずにヤキモキさせたと思ったら、まるでパレードが通過するようにパーっと咲き散って、潔いというか余韻もないというか、味わう時間も持たせてくれませんでしたね。

 

先日は、なおさんの主催の対話の会に参加させてもらって、とても濃い時間を過ごせました。ありがとうございました。

あの場に集まった方々は、皆、はじめから申し合わせた目的があるわけではないのに、共通意識と言いますか、似通った課題や疑問を持ち寄って集っているのが面白いですね。

その中でも一際、眩しく光り輝くオーラを放っていた「するめさん」が、なおさんの娘氏さんだとは、最初全く気づきませんでした。

ぱっと見の印象が10代に見えず、20代前半くらいに感じたからなのですが、大人びているというより「老成している」雰囲気があって、これは同年代の子たちとは話が合わないだろうなと勝手にその苦労に思いを馳せたりして。

ごめんなさい、おばさんの感傷でしたね。

つい最近、似た雰囲気の子たちにあったような気がして、どこで感じたのだろうと、あれから考えていました。

鋭さや賢さ、繊細な感受性が感じられる言葉、自己防衛にぐるりに張り巡らせた壁のような硬い雰囲気、諦観が混じった視線。

でも、不謹慎を承知で言わせていただくと、なおさんの娘氏さんは本当に綺麗で美しくて、逆光に透けた髪と細い首筋ごと額に入れて飾りたいくらいでした。

話す言葉や仕草もなおさんに似ていて、親子ですね!と感心していました。

 

私には二人、子供がいます。

上は22歳、色々あって昨年一年間休学し、今年大学4年生になる息子と、下は18歳、高校三年生になる娘です。

他の人から見たら、この二人の子どもにも、私の影響が見てとれるのでしょうね。

それがどんなものであっても、二人の表層にあるものが良い影響であることを祈らずにはいられません。

 

この間、息子の通う大学へ見学に行ったのです。

息子は在学期間がコロナ禍に相当していて、1、2年生の時は授業はほぼリモートでした。当然、入学式もオンラインで、保護者は一度も大学に行く機会などありませんでした。

息子の通った高校はいわゆる進学校で、なかなかな勉強漬けの日々でしたので、家庭はフラストレーションの発散場所になっていました。その被害を一番に被っていたのは私なので、本人の希望する大学に進学が決まった時に、一度くらいは見学に行きたいと思ったのです。通うのは子どもであって、親には関係がないのはわかっているのですけど、高い学費を払うのだから見にいくくらい許されるだろう、と。

それに、日本の最高学府の一つとされる場所が、どんなところだか見てみたいですよね。

 

東京の真ん中にある、ビル街に囲まれたキャンパスは、恐ろしいほど静かでした。若い人ばかりのはずなのに、活気や叫声など全くなく、ポスター、張り紙などの類もほとんどなく、掃除が行きとどき、怖いほど清潔で何もないのです。

授業が終わると、講義室から学生が廊下に出てくるのですが、誰も彼も大人しくて行儀がよく、話し声も葉擦れの音のようにしか聞こえません。

キャンパスってもっとうるさいものだったと記憶しているのですが。

中庭に、木立ちに囲まれたカフェスペースがあるのですが、4人がけのテーブルに一人づつ座って等間隔にスペースをとり、会話などのコミュニケーションが全くなく、皆、俯いてスマホをいじっている。全く動かないその姿はマネキンかと錯覚しそう。

変な例えですが、大手企業の昼休みみたいなんです。

諦観、というより絶望してるようにも見える。

ごめんなさい、その感じがふと、娘氏さんの中に見えたのです。

こんなに若くて賢くて、未来が夢がいっぱいのはずなのに、途方に暮れてる感じ。

でも、これは大人の責任ですね。

私たちは本当は、子供達をこんなふうに疲れさせたりしてはいけないのに。

しかし、現実は問題が山積みで、なかなか思うようにいかなくて。

後ろめたい思いがありながらも、自分も体調をみながら上手くやっていくしかないのですけれど。

 

もう一つ、とても印象的だったのは、学生にアジア圏の留学生がとても多かったことでした。4割は留学生だったのでは、と同行した夫に言ったら「ええ?!みんな日本人だろう。勘違いじゃないの?」と言われました。確かにこれは推量なのですが。

しかし、男の人って、この手のことに疎くないですか。

短髪で筋肉質、いくら4月にしては暑いとはいえ半袖のポロシャツ・半ズボン、デカデカとブランドロゴの入ったバッグを持っている、なんて男の子は、帰国子女である可能性はあるけれど、日本で生まれ育った可能性は低いように思います。

女の子はもう少しわかりにくいけれど、日本女子は型で抜いたように同じ髪型、同じ化粧、同じような服を着ている。もちろん、可愛い系の服装や古着系、スポーツカジュアル系、などバリエーションはあるのですが、質感が似ているのです。特に最近の服は化繊ばかりなので、テラテラしているので分かります。目尻がはねたようなメイクや、ファッションがトゥーマッチな女の子は多分、外国籍の人。

それでも女子は、まだ華やかさがあるので救われます。黙っていてもエネルギーが溢れそうな雰囲気に、周りは勢いで引っ張られ、楽しそうに見えます。

対して、日本人の男の子は、だいたい痩せぎすで、黒色か灰色の服を着て、どんぐりのヘタみたいな髪型なの。品が良くてセンスもあるのだけど、貧相な感じ…素敵とは言いがたく、悲しくなってしまいました。当人からしたら大きなお世話なのだとわかっているのですが。

これはコミュニケーションを自ら拒否して、自己完結している雰囲気からくるもののように思えます。

女子は国籍に関係なく楽しそうなのに、男子は単独行動の子が多かったのも、つまらなそうな疲れている印象を受けた原因かもしれませんね。

でも、ビジュアルから受ける印象って本当、馬鹿にできないのです。

日本の衰退、というか萎縮を肌で感じた一日でした。

おかしいな〜コミュ力高いことで有名な大学なはずですが。

何かがどこかで変わってしまったのかなあ。

コミュ力高い男の子は、たまたま私たちの目に入らなかった可能性もありますけれど。

 

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」

創始者の言葉がパネル展示してありました。

ここへくる前は「平等どころかヒエラルキーの頂点に立った満足感」が溢れてる場所のように感じていました。

でも実際は、競争の果てに疲れた日本人若人と、未来の希望に燃える外国籍若人の場所、のように印象は変わりました。

それに、やっぱり肖像が一万円札になるだけある〜!!

学内がもう、金持ちしかいない感じ!

駐車してあるのはポルシェ、アルファロメオフェラーリ

日本車を見かけたらほぼプリウスです。

その「金持ち」の中に、日本人はあまりいないように感じます。

 

他の大学でも、入学したら半数は留学生だったとの話を聞きました。

外国人という偏見に、排斥思想が絡んで炎上しがちな昨今ですが、教育の現場から意識が変わるかもしれません。

でも、もしかしたらその変化は、平和的フラットな同士関係じゃなくて、ヒエラルキーを増大させるものかもしれない。そんなことを考えて、ちょっと怖くなってしまいました。

なおさんのご家族は留学経験者が多いと聞いていますが、昨今の日本は、外からはどう見えるのでしょうか。聞いてみたくなりました。

相変わらず「日本が一番」な風潮のテレビなどをふと見てしまうと、辛辣な意見を聞きたくなってしまう私です。

 

あわわ、取り止めもなく長くなってしまいました。

それでは、また。

夫婦のパートナーシップにとって大事だと思うもの(なお→みずえ)

みずえさん

 

こんにちは!

最近新しい仕事を始めたので、書くためのまとまった時間がなかなか取れず、随分間があいてしまいました。

私はゆっくり考えたり書いたりする時間を取らずにタスクに追われて頑張れるのは、せいぜい一週間が限度だ、と分かりました。

それ以上になると汚れた部屋の中で暮らしているみたいな落ち着かない、やさぐれた気持ちになります。

早いとこ、新しい日々のルーティンを構築しなければと思っているところです。

 

 

お返事が書けない間も夫婦間のパートナーシップについて、折に触れてつらつら考えていました。

みずえさんのお話、分かるなあと頷いたり、自分にはない視点を新鮮に感じたりしながら読ませていただきました。婚活中のお知り合いの話も興味深かったです。

 

趣味や性質は正反対。でも、互いに言いたいことを気をつかわず言い合えて、違いは違いのままに、今では一番の理解者として、生活面の協力関係も成立しているみずえさんと夫さんの関係は、一緒にいてなんとも楽ちんで心地良さそうです。

みずえさんは私の夫婦関係をうらやましいと書いてくださっていましたが、娘に言わせれば「(私たち親を筆頭に)周囲の結婚している大人たちは皆何かしら不満を抱え、幸せそうに見えない。結婚なんてわたしゃしたくないね」ということだそうです。

子供から見てそんな夫婦ですので、全くほめられたものではないです。

 

ただ、みずえさんの夫婦の話を読ませてもらってしみじみ思ったのですけれど、

夫婦とは、偶然の縁で一緒にいることになった他人とかなりしぶとくあきらめず、途方もなく地道な共同作業を生涯かけてやっていくことであり、何はともあれなかなか尊いことではなかろうか、って。

その反面、あまりポジティブではない意味で結婚を継続する理由にもなるとは思いますが。

つまり、夫婦のパートナーシップとはこんなにも手間ひまがかかりめんどくさいことなので、相手を変えて何度もトライできる気が、とてもじゃないけどしませんよね、という・・・。

結婚するより離婚する方が何倍もパワーが要るとはよく言われることですが、どんな夫婦関係であっても、これまで二人の間で積み上げてきたものをリセットする時の重たさたるや、身動きが取れぬほどだろうと想像します。

それは確かにみずえさんの書かれていた通り、「恋愛のときめき」みたいなふわっとした世界とはだいぶ次元が違う話ですよね。

 

私にとって夫婦関係って、不器用なつぎはぎで使い勝手の良いように妙に細かくカスタマイズされた、自作の手芸作品みたいなイメージです。

尊いものもくだらないものも一緒くたになっていて、不恰好で他人に見られるのが恥ずかしいような代物なんだけど、この世にひとつしかないし、どこか愛おしいような感覚もあり、簡単には捨てられない、みたいな。

二人の間で長い時間をかけて、互いに身体の一部として血肉化された関係ゆえ、離婚することは、人によってはその間生きてきた時間を丸ごと捨て去るようなきつさをもたらすかもしれません。

 

そういう抜き差しならぬ関係を互いの間に築くのが夫婦関係なのだとしたら、夫婦のパートナーシップに不可欠なものとは何なのでしょうね。

婚活中のお知り合いもそうですけど、今ではマッチングアプリで相手を探すのはごく普通のことになってますよね。

私の若い頃はまだ「出会い系サイト」という言葉しかなくて、ちょっと怖いイメージでしたが、今は新しいSNSを始める感覚で、とりあえずアカウント作っとくか、みたいな気軽さなのでしょう。

 

もし、私が今のような情報ありきの世の中で婚活をするとしたら、石橋を叩き過ぎて、そのうち全てが嫌になって放り出していそうです・・・。

条件から付き合う相手を絞り込んでいく、という流れの中で人と知り合って、信頼関係を築いていける気がどうしてもしません。

履歴書を書いても、その中に自分自身がいる気が全然しなくないですか?

プロフィールってなぜかそうなってしまうもののような気がします。

それでも、いざ条件が目の前に提示されれば、自分も比較検討して、自分にとって悪いよりは良さげに思える条件の人と会おうとするにちがいないのですが、そのプロセスの中で大事なものを知らずに捨ててしまっていて、結局自分に合わない間違ったカードの中から焦って選ぼうとする、みたいなことになっていそうです。

一見フラットな「条件提示」みたいなプロセスがあることで、判断基準がぶれ、直感が鈍り、かえって自分にとって間違った相手を選んでしまう可能性が高まりそうだと感じます。あくまで自分の場合ですが。

 

結局、私がパートナーシップにおいて大事と考えるものは、数値化・言語化できる条件の外側にあり、それを持っている人と持っていない人がいるとあらかじめカウントできるようなものでもなさそうです。

お知り合いが言うところの「生活感覚や家事スキルが同程度な人」というのも、実際のところ、特に子供が生まれたらどういう運営になるかは暮らしてみないと分からないのが難しいところですね。

家事や育児の分担問題は、スキルが先天的な資質みたいに独立して存在するというよりは、双方の考え方と関係性の中で定まってくる部分が大きいのだろうと考えます。

「家事は妻にやってもらって当然」という考えの人なら、いくら家事スキルが高くても何の意味もないですしね!

私の場合で言うと、夫が何を言ったとか何をしてくれなかったとかいう以前に、自分は経済的に養ってもらっているのだから、妻だから、母だから、女だから、自分が黙って余計に担うのが仕方ないのだ、と自分で自分に呪いをかけてしまっているところがあります。

果たして現実がまさにそのようになっていて、怒りながらでないと自分の思いを主張できなかったりする。

自分で自分を低く見積もってしまうことへのやるせなさや情けなさが、強い怒りの根底にあると感じることがあります。

 

 

で、

私が今の時点でパートナーシップにおいて大事なんじゃないかなと思っていることは、こんなことになりました。

ひとつめは、ときめき(意外にも!)。

ふたつめは、匂い。

みっつめは、土台。

です。

 

今回自分を振り返って考えてみると、ときめき、わりと大事かも、と思いました。

「恋愛の」と限定するのは確かにハードル高すぎですが、互いに好ましいと感じられる人であることはそれなりに大事かもと思います。

世間的にイケメンかどうかとかではなく、後ろ姿ににっこりできるような好ましさというか。

そこには服装や身の回りのもののセレクトや、清潔さ、人やものとの関わり方なども含まれると思います。

そういう部分が心地良くしっくりくる、一緒にいて浮き立つかんじがあるかどうかって、表面的なようで、実は結構大事だと思います。

 

匂いが嫌いでないかどうかは、かなり重要だと思います。

わざわざ挙げるまでもないことかもしれませんね。

匂いが嫌な人と一緒に居られる人っていませんもんね。

私は、パートナーに限らず、親密な関係性の相手とは、五感や直感に相当任せている気がします。

特に匂いは、自分にとって間違っている人かどうかを身体が教えてくれる。嗅覚は正確なセンサーだと思います。

 

そして、価値観というとやや層が浅いかんじがするのですが、互いの「土台」がすっと了解しあえることが肝要な気がします。

それは大上段で語られる理想のようなことではなくって、日常的な仕草、ほんの些細なサインとしてあらわれるようなことです。

難しく考える必要はなく、同じ土台を共有する者同士は、一緒にいて無性に楽で、居やすく、無理がないはずだと思います。

話がすっと通じるし、自分を偽る必要がないから。

まさにみずえさんご夫婦のように。

「気」が合っている、という感覚が大事だと思います。

逆に、その心地良さを感じられない人とは、どんなに理想的でも尊敬してても、長期的なパートナーシップを築くのは、かなり難しそうです。

これだけは譲れないという土台の部分に共鳴し、尊重し合えることは私には重要です。

それは全ての話の根っこにつながってくることだと思うからです。

 

 

今回、夫婦のパートナーシップについて考える中で、すごく思ったことがあります。

それは、人は年を経ることで変化するということ。

私自身、相当変わったなあと感じます。

3児の母になり年齢も重ね、外見も趣味も生活感覚も家事スキルも考え方も色々変わりました。

20代の頃の自分には想像もつかない自分を生きています。

夫も、出会った頃とはかなり変わりましたし、彼がこんな風に変わっていくことを全然予測できなかったです。

長く一緒に暮らす中で、避けがたく互いに影響しあい、良くも悪くも互いに染まりあっていったと思います。

 

人が生きていく中で、いろんな出会いや思いがけない出来事があり、何かに打ち込んでみたり、飽きてやめたり、病んだりもし、考え方や価値観は常に変容していく。

自分も相手も変わっていくし、この先自分がどう変わるか本人にさえ分からない。

同時に、時代や社会情勢も変化し、それに伴って世の中のスタンダードも変わっていく。

予測不能なことばかりだし、変化のスピードはますます早まっています。

 

そういう意味で、結婚生活について偶然や運の良し悪しから逃れることはできないし、誰かに言える確かなことなんて何もないといえます。

あくまで自分の場合はこうでした、ということしか。

人生には、不確定要素が多すぎるから、人間が制御するのは無理ですね。

 

今回挙げた「相手を好ましい存在だと思える」「生理的にしっくりくる」「土台を共有している」だって、結構大きく出たね感はあります。

これらでさえ、人間やってたら変化していくものですし。

でも、このことを心の隅に留めて、自分も相手にとって好ましい存在であろうとしたり、けんかしたり対話したりしながら共に土台を磨いていくということが、夫婦の共同作業ということになるのかなと思います。

 

 

具体的なような、抽象的なような話に終始しました。

どんなにはたから見ておしどりカップルに見えても、どんなに練れた人であっても、人と人が共に暮らしていく中で軋轢は避けがたく、誰しも不満や怒りを抱えるものだと思います。

そこに加えて、いろんな変化やアクシデントや飽きなどが降りかかってきて、関係はいつだって揺らぎまくる。

でも、人間はひとりでは生きていけないから、なんとかパートナーや家族や仲間と協力しあって生き抜いていかねばなりませんよね。

 

その時に、言葉なくただハグし合える人であること。

そして、色々間違っても、合わなくても、土台だけ共有していれば、対話が何とか可能になる。

対話が不可能な相手とは、最終的には「戦争」になるしかありませんから。

究極大事なのはそこなのかなあ。

今のところはそんな風に考えています。

 

 

まとまりのない長い文章になってしまいましたが、もうこのままえいっと送信してしまうことにします。

こちらから次に繋がるパスは今回は投げませんので、またお時間のある時に最近の関心ごとなどについて聞かせてもらえたら嬉しく思います。

 

今日は少し肌寒い曇り空ですが、桜が満開なので、これからお花見弁当を持って公園に行ってきます!

実践的生活の知恵(みずえ→なおさん)

なおさん、続投を許してくださってありがとうございます!

ここ最近「夫婦が上手くやっていくのに不可欠なものは何か」と考えていました。

 

というのも、婚活中の30代女性と話す機会があったのですが、マッチングアプリで探す場合は、まず容姿外見→プロフィール欄の価値観や趣味嗜好が同じな相手から探すと聞いたのです。

しかし、たくさんの人に会いマッチングした結果、「大切なのは映画の趣味が合う人より、生活感覚が合う人だなって」と考えが変わったそう。

「だって疲れて帰ってきたとき『ご飯どうする?簡単なもので良いよ』とか。

自分で作るつもりも買ってくるつもりもない男と人生共にするなんて、今どきあり得ないじゃないですか。ルックス良くても無理、って思って」だそうです。

マッチングアプリのプロフィールに、家事スキルも星とかで表示して欲しいな」

と…なるほど。

 

長く結婚生活を続けて、互いに満足のゆく人生を送りたいと思ったら、どうしたって「生活能力が高い人、もしくは自分と同等の相手」の方が、後々楽に生きてゆけそうな気がする…

が、これって結婚する意味あるのかな?!

フツーにルームシェア相手探した方が良くない?

と、現代は、改めて結婚の意味が問われますね。

夫婦生活ってなんでしょうね(夜ではなく昼の意味で)

家事分担や生活のあれこれ、子供を持ったら育児のことも、互いに納得のいく運営がなされていること。

改めて確認すると、この中に「恋愛のときめき」は必要ないですよね〜?

そうすると、恋愛と結婚をセットにしてきたのは、家事労働や育児を女に押し付ける策略だったのかと言えなくもないような。

「愛による搾取」ですね。

気づかずに奴隷化されてきたのかと、言ってしまったら極端でしょうか。

なおさんは生活の中で、理不尽を感じることがありますか?

私は、ありありですよ(笑)

不満しかないという日々が長く、離婚したいと本気で行動した時もありました。

では、何故いま私は離婚せずにいるのか。

 

それは、今の時点では様々な要因があり、まだ整理がなされていなくて

上手く話すことができないのですが…

結局は一人で暮らす心細さ(生活費、精神面、防犯)の回避、がいちばんの理由になるかもしれません。

一緒にいて楽しいから、というときもあったのです。

その「楽しい」の中に、昔は「ときめき」があったはずなのにな〜と、過ぎ去った時間に思いを馳せたりする余裕が最近は出てきて、気づけば、夫は一番の理解者になっていました。

 

今朝は体が重くて6時に起きて弁当を作れず、娘に「学食で食べて〜」と布団の中でいったあとに寝落ちてしまい、目が覚めたら10時すぎ。

久しぶりにやってしまったと焦ったけれど、夫が起きてお弁当と朝ごはんを作ってくれていました。昨日のおかずの残りと卵焼き、冷凍食品を詰めて持たせたそうです。

夫は一人暮らしが長かったせいもあり、炊事洗濯などの家事をすることに抵抗なく、食事の用意の途中でバトンタッチで包丁を渡して続きを頼んでも、難なく料理をして盛り付け、後片付けもしてくれます。

以前は自分のことはともかく、家族のためには絶対に起きてくれませんでした。

私一人が家族マネージャーをしていたので、寝坊すると家族全員全滅パターンでした。最近は夫がフォローしてくれるようになりました。妻(私)の体力が減るばかりで最近は更年期で不調が続き、やらかしが増えたので、必然的にやらざるを得なくなっていったのです。

究極、夫婦は家事の分担さえできていれば、家庭内にいざこざはほとんど起きないのでは…と思っているんですが、どうでしょうね。

でも、これがまた悩みの種でもあります。

我が家は二人して在宅仕事なので、どちらかが時間があるときに担当することになっているのですが、二人して切羽詰まってくると、弁当や宅配、レトルトが続き、ストレスが溜まってゆくのが分かり憂鬱になります。なかなか上手い配分って難しいです。

最近は子供達も手伝ってくれるようになり、もっと早くに任せるんだった…!と後悔しています。

私も共働き家庭だったため、小学生の頃から食事や洗濯なども家事を任されることが多々あったのですが、自分の子供についてはつい、手を出し口を出して最終的にはやってしまって、任せることができずに今日まで来てしまいました。

やらせないとできないのが家事なんですよね。

日本の将来のためにも、子供たちには率先して家事を覚えてもらわないと…!!

でも今の子供達は忙しすぎて、家事までさせてしまうのは酷のような気もします。ヤングケアラー、とかそんな問題もありますね。

家庭の運営を学び実践すること、それが夫婦のチームワークにつながるのだと思うのですが、どうでしょう。

 

今日はアカデミー賞の発表でしたね。

「落下の解剖学」受賞効果でもう少し映画の上映期間が伸びそう!

早めに見に行こうと思います。

「ボー」も見に行かなくては!!

 

気ばかり焦りますが、とりあえず目の前の仕事を終わらせなくては。

ではまた。

分断に歩み寄る。キャッチボールにはならなくとも(みずえ→なおさん)

日に日に日差しが柔らかく空気が暖かくなるにつれ、ただよう花粉と霞む視界に春を感じる頃合いですね。

しかし三寒四温の季節の常で、今日はまた冬に戻ったような寒さ、耐えられずヒーターを入れてしまいました。

気づけばもう3月も5日も過ぎて…え?もう3月!ってカレンダーを二度見していたのに?

時間の過ぎ去るのが早過ぎて、気を失っていたのではと疑ってしまいます。

 

先日、なおさんの対話会に参加させて頂いた日も、こんな天気でしたね。

なおさんが誘ってくれた対話の会は、まさに「立場や世界観が違う人たちが、違いを乗り越えて対話する場所」でした。

所属や出自、年齢さえもバラバラの方々でしたが、言葉のセンスや感度が高くて、濃い時間を過ごさせていただきました。

こういう会は最後が散漫な印象になってしまうのですが、オチや結論などという野暮な言葉でまとめたくない、柔らかな結束で閉会したのは、なおさんがファシリエーターを務めていらしたおかげです!

なおさんは、さすが運営側の視点で、会の進行のためには「調和を乱すことが必要」と書いていましたが、参加者側の視点としては、あまりトリッキーな発言はやはり警戒心が働いてしまうように思います。

(暴露合戦になってしまった会に参加してしまった時は「早く帰りたい」とそればかり考えてたことがありましたし)

素敵な会なので、ゆっくりと時間をかけて、初参加者も安心して心を開くことのできる空間に育てていって欲しいです。

そして、それはそんなに先のことではなく、なおさんの対話の会においてはもう、既に達成している気もするのですが。

それにしても、もう「笑い」や「面白い」はもういいんだ、真面目に話したいんだ、という機運が高まっているのをとても感じます。

人々の違いや差異は、もう抑えられなくなる程に深刻な分断になっている。

なんとかしなければ、と誰もが思っているけれど、解決策は誰にもわからない。

でも、少しづつでも歩み寄ろうというような雰囲気があって希望を感じます。

歩み寄り、英語の "compromise"という言葉がとても好きなのですが、和訳だと「妥協」とされることが多くて、ちょっとがっかりするのだけど。

「譲歩」「折衷」「和解」

そんなニュアンスも込めて、自分を含めて少しづつ、利他的な態度でいられれば、きっと何か良い方に変わるような。

そんな気がします。

 

そして、なおさんが提示してくださった私の一番の他者、夫についてですが

私と正反対の嗜好・趣味で、指向も主義も全く違う人間です。

違いにどう向き合っていますか」と聞かれたら、向き合わないように努めています…としか答えられません。喧嘩になるからです…

なおさんは真摯に向き合っているなあと、こちらのブログを興味深く拝読しました。

なおさんの夫婦関係を羨ましいと思ってきましたが、「正しいことがどれほどのことか」という箇所が印象的で、気づいたことがありました。

私たちの会話をキャッチボールに例えたら、どっちも好き勝手にボールを投げているだけで、放ったボールの先を気にしていないけど、ストライクなボールを投げなくても良いという関係の方が、私たちには容易く安寧な気分にお互いいられるのです。

もちろん、ボールがものすごい暴投だったり、豪速球でココロを抉ってきたりする場合もあるんですけどね。

 

今のところ、平穏な関係を保つためのルールは「ボールの行方は追わずに、お互いのテリトリーを不可侵のこと」という感じです。

夫は、この年代の男性にしては珍しく家事炊事が得意なので、共同生活しやすいという点が、私達が夫婦でいる最大の理由かもしれません。

ただ夫の作る食事の好みがハイカロリーなので、夫の料理が続くと太ります…

良いようで悪いようなバランスの妙、それが夫婦なのかもしれませんね。

 

しかし、本当になおさんの映画評は素敵!見に行きたくなります!

夫の「落下の解剖学」映画評は「興味ひく筋立てなのに演出が淡々とすぎて退屈、こっちが落ちないよう必死で瞼をこじ開けてた」というものでした。ひどい。

本当に同じ映画だったのだろうか?と首を傾げてしまいます。

でも本当は、この違いを埋めるべく、歩み寄りしていかなくちゃとは思っているのです。

それには、夫の方にも、歩み寄るべき溝があることを自覚してもらわなくちゃならないのですが。

「男」とか「女」の差別を超えて、「人」として共生していくことは、果たして可能なのでしょうか?

私たちの世代ではもう無理かもしれませんが、息子や娘たちの世代では変わっていって欲しいですが、そのために何を為すべきなのでしょうね。

 

長くなってしまいました。

明日は晴れるとの天気予報ですが、花粉も大量飛散とのこと。うぉ〜ん涙目。

しばらく家に籠るようになりそうです。

なおさんもご自愛くださいませ。

ではまた。

なぜ対話なのか(なお→みずえさん)

すっかり間が空いて、3月になってしまいました。

変則的になってしまい、すみません!

朝一番の回でアリ・アスター「ボーはおそれている」を見てきました。

この作品も来週には上映終了になってしまいそう。滑り込みセーフでした。

私、この映画すごく好みでした!今週は「落下の解剖学」も見て、これまたすごい作品でした。

刺激の少ない地味な暮らしですが、毎日が発見や価値あるインプットで満ちていて、考えたいことが多すぎて、アウトプットが全然追いつかない、万年便秘気味という感覚が常にあります。

 

日に日に春めいてきていますね。

最近の早朝散歩は、マフラーは巻いて上着は着ませんが、爽やかな寒さです。

散歩がてら願がけしていた上の息子の音楽院の試験は、残念ながら不合格でした。

なにしろ合格枠がたったひとりだったので、家族のみんな「ベストを尽くせー」とハッパをかけつつも、ダメもとかねーと言い合っていました。

ま、仕方ありませんね。

どこかしら別の音楽院には動くでしょう。

 

学校は、縁のあるところに行くものだと思っているし、そもそも「落とすための試験」というものが性に合いません。

希望者が多いから仕方なくそうなるのですけど、ものごとの本質からどんどん離れていく気がして。

そういうものにはあんまり必死になるものでもないなあと内心思っている自分がいます。

 

それにしても、子供の学びを経済的に支えるのは大変ですね。

我が家は日本の音大に行くくらいなら、という感覚で、えいやっと海の向こうに送り出してしまいましたが、生活費も含めると、やはり!それなりに!かかっております。

彼もバイトもして、節約してやってくれてはいるのですが、物価ベースがあまりに違いすぎます。あー日本の没落が恨めしい。

いつまで支え続けられるか分からないから、早いとこ自分のなりの未来設計にロックオンしてもらいたいと親としては願っているところです。

 

 

先日は、雨の中遠くから対話会に参加してくださって、ありがとうございました。

ランチもご一緒できて嬉しかったです。

まさかこんなに早くに再会できるとは、往復書簡のおかげですね。

久々すぎて実は少し緊張してましたが、みずえさんの印象は以前と少しも変わってなかったです。

LINEにも書きましたが、素人が思いだけでやっていることなので、物足りなく思われたところも多々あったかと思います。

貴重なお時間を割いて共に過ごしてくださって、ありがとうございました。

 

対話の後ブログに書いてくれた感想(マウントをかわす魔法 - 流れる星をすくいあげる)が、すごーく面白かったです。

まず、みずえさんが参加した色んな集まりの共通項が面白かった!

おかげでいろいろ客観視することができました。

やはり、あの場のリーダーはNさん(一緒にお蕎麦食べた彼女ですね)だし、補佐役はFさんなんだなあと素直に思うんです。

みずえさんは補佐役を私と思ってああ書いてくれたのかなとも思うのですが、私は気が利かないし、サポートするタイプでもないんですよね。

謙遜とかではなくほんとうに。

 

「なぜ対話を始めたいと思ったのか」という質問の答えにつながるので、もうちょっと書かせてください。

模索中の身で、何が正解か不正解かなんてないんですけれど、あの場の対話が想定していたものかと問われたら、正直に言うと、少し違うかもと思います。

もちろんあの素敵な空間で心優しい聡明な人たちと深い話ができることが毎回楽しみですし、あの場でいろいろ試行錯誤してみたいこともあります。

ただ、ハレーションは少ないといいますか。

あの場に集う人たちは皆、みずえさんがおっしゃる通り物分かり良く、教養があって、すでに相当言語化も価値観の体系化もできているような人たちが多いのですね。

さらに、スピリチュアル的な感性や能力が高いか理解が深く、そういう分野に対する偏見がない人たちでもあります。

それはあの場を提供してくださっているFさんの人徳ゆえですね。

共通項が多い人同士でも、人は一人ひとり違うので、対話の面白さや学びは当然ありますが、相当「了解しあっている」という共感ベースが会話を下支えしていることも感じます。

 

 

夫が長年ドキュメンタリー映像の業界に身を置いていて、社会正義や環境や差別といったテーマの作品に関わることが多い中、そういう映像作品がどうしても「分かってる人、その問題に関心の高い人」の間だけで消費されがちなことを、常々どうなんだろうねと話してきました。

むしろ重要なのは無関心だったり、そういうものにアクセスする時間や心の余裕のないような人たちなのにね、と。

多くの自主上映ドキュメンタリーだったり、特定の分野の講演会や勉強会といったものが、すでにその問題をよく学んで理解している人同士が共感的に集う状況を超えた機会をなかなか提供できていない。

時々、その高い壁を越えるスマッシュヒットも出てくるのですが、多くはありません。

 

社会の分断の状況にもいろんなことを思います。

コロナ禍とそれに伴う経済の急速な低迷が、より人々の、あらゆる「違い」に対する脊髄反射的な拒絶を鮮明にしたと思います。

個人レベルから国レベルまで、考えの合わない他者を、お互いに「頭おかしい」と言い捨てるか、正しさを主張して攻撃し合うか、すぐに諦めてシャッターを簡単におろしてしまう。

あるいは力の強い者が暴力的に他者の意見を無視して強引に自分の考えを押し通す。

SNSの世界では、人によって持っているリアリティーが呆気にとられるほどかけ離れていて、互いにどこから取っかかりを見つければいいか途方に暮れるほどです。

娘が学校に行けなくなった理由はいろいろですが、先生になにを尋ねても訴えても、言い方は違えど要するに「意味を問うな、黙って従え」と言われ続けたこと、スクールカースト的価値感の子供同士の競争的な関係、ご飯もゆっくり食べられないくらいの多忙さなど、対話を拒絶するような空間だったことも大きな理由の一つだったと思います。

 

つまり、価値観や世界観が違う人たちが会して、「ちょっとだけ違いを乗り越えてみる」「相手の立場に思いを馳せてみる」「自分の常識を疑ってみる」みたいな経験が、まず自分が経験不足だし、世の中にも圧倒的に不足しているように思える。

そういうことをケンカになることなく安全が守られ、気楽に試してみることができる小さな場所を私は作ってみたかったのだと思います。

大人も子供もえらいも強いもなく全員が平等で、極端なことや間違ったこともどんどん臆せず、まとまらないままどんどん喋る、全然いいこと言おうなんてしない、そんな気をつかわない実験場みたいな感じ。

 

そうは言っても、実際には難しいです。

ぎくしゃくしたり分からなかったり、もやっとする他者と出会ってわざわざ話したいって、人はなかなかなりませんから。

対話に参加してもらうにはそれなりの必然性やより明確なイメージというものが必要になってきます。

どういうモチベーションを提示できるだろう?とつらつら考えています。

今はまだ、ひよっこすぎて、そんな感じなんです。

だから、調和を乱して申し訳ないみたいにみずえさんは書かれていましたが、調和を乱す人こそいて欲しいです、切実に。

むしろ、自分が率先して乱したいと思っています。

蕎麦屋でも話しましたが、自分が一番格好悪く、弱さをさらすことで、安心してもらえたらと思っています。

 

私もみずえさん同様、人が怖いです、とりわけ集団が怖いです。

でも、自分を自分だけで変えることは私にはできなくて、他者(人間だけとは限りませんが)との出会いや関わりによって変化していくという思いはずっとあり、その割に友達が少ないので、だから対話に関心が向かったのかもしれないです。

むしろ勇気の反対なんです、自分にとって安全な場を作ろうと思っただけで。

でもだからこそ、誰かが気まずかったり悲しい思いをすることがない場にしたいということは強く思っています。

 

みずえさんは「共生」という言葉に惹かれているということでしたが、「他者との違いを乗り越え共に生きる」ために、どんな考えをお持ちですか。

やはり一番身近な他人ってパートナーだと思うのですけど、夫さんとの違いにどう向き合っていますか。ぜひ聞いてみたいです。(いきなり核心)

立ち入った話で今はまだ、ということでしたらまたの機会で全然大丈夫です。

 

 

ああーまた長くなってしまいました。

長島さんについてはまた折に触れて他で書かせてもらおうと思います。

これにて一旦バトンをお渡ししてもいいでしょうか?

推敲もせずに、勢いでアップさせていただきます。

 

春は何かとばたばたする季節ですので、お時間の余裕のある時に。

 

 

2024.3.1.なお

若い頃の自分、旅、コロナ後の心境など(なお→みずえさん)

みずえさん

 

こんにちは。重ねてお返事くださって、ありがとうございます。

共感できることがあまりにいっぱいで、うー分かるなあ〜、こういうことを語れるって嬉しいなあ〜としみじみ喜びながら読ませていただきました。

そして影響力なんてどこ見渡してもないですし、笑、こちらこそが光栄ですので、のんちさんの言われる通り、鋭意精進抜きで、ネットの広大な海の隅っこで気楽に正直に語り合えたらと思います。

私、もう末っ子の授乳もとうに終わったので、最近はもう夕方から缶チューハイを飲み出す暮らしに戻っています。ので、ヘラヘラ飲みながら書いちゃったりもしますので、ひとつよろしくです!

 

 

みずえさんにとっての仕事がかつてどういうものだったか、そしてそのスタンスがパンデミックを通じて変遷していったお話、とても興味深かったです。

自分の好きなことを大学で学び、仕事にしていて素晴らしいなあと思います。

でも、好きなことだからこその苦労や引き裂かれる思いもあるのでしょうね。

 

みずえさんと違って、好きなことを仕事にできなかった、というか好きなことがなかった私の若い頃の話をさせてください。

私は大学は文学部で、就職に関しては何の専門性も生かせず、卒業後は食品メーカーでマーケティングをしていました。

就職の条件は、関西から遠く離れた土地で暮らせる仕事というものでした。

今思えば愚かという他ないんですけど、自分に何が向いているかや、自分が何を欲しているか、表面的な部分を適当にさらっているだけで、実際は何も考えていないに等しかったと思います。

 

小学生の頃から反抗的でシニカルなたちでしたが、子供時代に目の前にぶら下がった人参を追いかける以外の生き方を示してくれる大人にほぼ出会えなかったので、いろんなことが嫌で億劫で仕方なかったけど、既存のレールに従って進むしかないんだ、それ以外の生き方は能力の高い特別な人だけに許されるんだと思っていました。

ずっと私にとって人生は行き当たりばったりのロールプレイングゲームみたいなものでした。

とりあえず〇〇を目指して頑張って、クリアしたら次の扉が開いて〇〇があらわれ、次はそのクリアを目指して頑張る、的な。

今の私は、何かにつけて本質本質って言ってますけど、全く本質的じゃない生き方ですよね。

子供が生まれるまでは、いや生まれてからもしばらくは、相当その日暮らし感強めの人生観だったなと思います。

上の息子が小学校低学年の頃に、思いがけなくまとまったお金が入ってきた!ってなったら、全部放り出してリュック背負ってぱーっと家族4人でメキシコ縦断旅行に行って、お金を使い果たして帰ってるとかしてましたから。

 

でも、みずえさんが仕事を大事にしていた気持ちと共通するものが自分にもあったと思います。

それは「役割から離れた自分であれる場所」を切望する気持ち。

私にとってそれは「旅」だったと思います。

 

成り行きで入社した食品メーカーでしたが、元々が「無」だからこそ、理想と現実のギャップもとりたてて感じることなく、大体のことは「そういうもんか」で呑み込んで順応できてしまったゆえに、20代中盤は、まんまとワーカホリックのスパイラルにはまり込んで行きました。

規則正しい生活や、健康的な食事をすることもめちゃくちゃ怠っていて、気がついたら、おかしくなってることにもあんまり気がつかないくらい身体も心もおかしくなっていました。

ある休日、転勤先のアパートに以前の事務所で一緒だった同期が遊びに来てくれたんですが、駅に迎えに来た私の顔を見てハッと息を呑んで一瞬黙りました。

その夜に浴室の鏡を見て、自分の顔が気持ち悪いくらい吹き出物だらけだったことに初めて気がつきました。

で、急に憑き物が取れたみたいに、あほくさ、もうやめよ。と思ってそれから割とすぐに会社を辞め、アパートを引き払い、適当にリュックに荷物を詰め込み、香港行きの3万円くらいの片道の航空券だけ買ってぷいっと旅に出ました。ほぼ無心で。

 

それから約1年間かけて陸路中心にアジア10カ国を放浪しました。

まさに「何の役目も肩書きもないただの人」として。

鼻先の人参なんてどこにもなくって、二股に分かれた道の前で、どちらにしようかな、と指差しで行き先を決めるようなことさえして、究極的に自由な日々でした。

旅からは、大事なことをたくさん教わりました。

時には嫌なこともあったけど、それを上回る幸福感や開放感がありました。

今となっては貴重な体験だと思います。

NYの9.11の同時多発テロ以降は世界を覆うムードががらりと変わってしまったし、今は円安で海外はどこも高すぎますしね。

 

話戻りますが、私は上の子供たちが小さい頃、旅がしたくてしたくて、誰かの旅行記も苦しくて読めないくらいでした。

当時は旅が好きすぎるからだと思っていましたが、子育て期だったからこそめちゃくちゃ行きたかったのだと思います。

母、妻、嫁の役割に自分がまるごと乗っ取られそうだったから。

ただの自分になりたかった。

だから、夫を説き伏せて衝動的にメキシコに行ってみたはいいものの、家族と一緒だったら、ある面においてはかなり意味がなかったといえます。

旅の最中であれ、妻と母という役割から自由になれないわけですから。

家族としてのスペシャルな思い出もできたけど、「こんなはずではなかった」という思いも残りました。

私にとっては、外国・ひとりであるということが旅の最重要ポイントのようです。

いつかまた、行ける日が来ることを夢見ています。

すっかり脱線しました。自分のことばかり長々書いてすみません。

 

 

ちょうどその頃、コロナ禍に入り、自宅待機が推奨されて、私は周りの雑音に惑わされることなく、仕事をしていなくとも自分でいられる環境を手に入れました。

そしてコロナが明けて日常が戻ってきた時には、意に沿わない仕事を無理にこなして自尊感情を貶めるよりは、無理のない自分でいられる日常の方が大切になっていました。

仕事の充足感よりも、毎日の生活の中で、自分の中にある感情や感受性を高めてくれることに焦点を当てたいと感じるようになったのです。

コロナのステイホームの期間、辛いという声がたくさん聞かれましたが、私もみずえさん同様、どちらかというとあの時期は快適で、幸福を感じられた期間でした。

何かをしたり何かを得て満たされたり幸福になるという価値観から、立ち止まり、何かをやらないことで幸福を得られるという転換は個人のみならず、多分資本主義が行きすぎた社会全体にとっても大きな気付きだったのではないでしょうか。

私も、外的な評価に自尊感情を求めるのではなく、毎日を丁寧に暮らすことで折々の自分の思いをより細やかに感じ、味わうことにフォーカスしたいと今、強く思っています。

最近は、どんな感情であっても自分の内側にわき起こった感情をできるだけじっくり感じ切ってみることを心がけています。

 

みずえさんの興味関心は、住む街でも、東京でも、ネットの中でもない場所に向かっている。

それは「どこか」ではなく、心の奥にあるまだ見ぬ自分自身なのではないかと読んでいて何となく感じました。

そして、私もきっとそうなのだろうと。

 

最近始めたばかりの対話の活動は、みずえさんのおっしゃる通り、自分を変えてゆくというか、ひとつの考えに固執せずできるだけ柔軟でありたいことや、この分断の世の中で、考えの異なる人と心を開いて話をしてみたい(まさに「共生」ですね)こともありますが、やはり自分自身を発見することへの興味は大きいのだろうと思います。

 

どんな対話をしているかについて、(プライベートに関わる内容は書けませんので)どんな問いについて語り合ったかをインスタの投稿(対話の後の振返り)で触れているので、良かったら覗いてみてください。

 

https://www.instagram.com/takibi_dialogue/?hl=ja

 

きっかけについて、ここから書くと更にながーくなってしまうので、お返事2つに分けさせてください。

長島友里枝さんについて書いてくださった分へのお返事も含めて、追って書きますね!

 

 

それでは、ひとまず筆をおきます。

 

2024.2.13. なお

写真という鏡に映った自分(みずえ→なおさん)

なおさん

 

順番を無視してイレギュラーにお手紙を差し込んでしまい、大変申し訳ありません。

そして、それを許してくださってありがとうございます。

「ははとははの往復書簡」を私も遅まきながら読みました。

長島有里枝さんは同世代で同じ大学だったので、とても親近感がありました。

(といっても面識はないのですが)

蜷川実花さんやHIROMIXさん、木村伊兵衛賞3人同時受賞だったこともあって「ガーリーフォト」として、当時よく取り上げられていましたね。

でもその後、フェミニズムを学ぶ方向へ舵を切っていたことなど、全然知りませんでした。一時期姿を見かけなくなったように思っていましたが、子どもを産んで育児をしている時期も私と一緒で、それは見かけなかったというより見逃していたのだと納得したりしました。

こんなweb記事も連載されていたのですね!

とても共感を持って読みました。

 

woman.nikkei.com

 

先日、文筆家の芳麗さんが蜷川実花さんとの思い出を語ったポッドキャストを聞いたばかりでした。

voicy.jp

 

「蜷川さんと一緒に仕事をした時期に、確信的に野心を隠さないで『私は権力が欲しい』とよく言っていた」

との言葉がとても印象的でした。

父親は有名な蜷川幸雄、母親も有名女優という芸能一家で生まれ育ち、古い体質の残る写真業界では悪目立ちしていたろうと想像に難くないですが

「やりたいことをやるためには権力が必要。自分が切り拓けば、後から来た子達も協力してもっとやりやすくなる。女の子と付属物扱いされているうちは、自由にやることはできない。本当の自由を手にするにはまず、フィールドを手に入れたい。

「女の子写真」と蔑まれながらも、親の七光りだろうが「女の子」扱いだろうが、使えるものは使ってゆく!」

明快な上昇志向が彼女にはあった、という話が印象的でした。

人工的なまでに毒々しい色味に、何者にも屈しない強さ、美しさへの憧れを、彼女の作品から感じることがあります。

写真表現に限らず、次々と具現化し広げていった彼女のバイタリティ、なるほど蜷川実花写真の世界観っぽい!と腑におちました。

先日、虎ノ門ヒルズにいったのですが、エスカレーター前の大型スクリーンにドアップで原色の花束が映し出され、度肝を抜かれました。tokyonode.jp

 

個展が開催中だったのですね。

すごいなぁ、と迫力に押されながら、往復書簡本の長島さんの活動に関する悩みや愚痴が思い出されて、なんとなく切なくなってしまいました。

でも華々しく豪奢な写真が表現する世界は、私には遠い異国のお祭りのようでした。

 

同じように「女の子」扱いされて悩み傷ついた長島さんの繊細な感じも、写真から感じられますね。

代表作になったポートレートも印象的で、記憶に残っています。

同じ時期に写真界で脚光を浴びた二人ですが、その後にとったスタンスは対極だなあと、過ぎ去った20年に思いを馳せていました。

 

ここ最近、「共生」というキーワードに惹かれ、突き動かされています。

資本主義社会が行き詰まっていることを感じながらも、どう生きれば良いかはまだ具現化できていないのが実情ですが、変化は着実に感じます。

何がどう変わったかは言語化が難しいのですが、潮流が明らかに変わっていますよね。

と書きながらも、どうだろう、そういうふうに見たいだけなのかも…と、現状を見ると自信が萎えちゃうのですが。

 

長島さんの写真からは「共生」が感じられて、なんとなく、こちら側なのではと想像させてくれます。

 

写真って本当に特殊なメディアですね。

なおさんが時々ブログに載せてくれる写真が好きです。

なおさんも写真を撮るのが好きなのでは、と感じる空気があります。

 

私自身は写真を撮るのは好きでも、撮られるのは苦手。

それは客体化した自分を突き付けられるのが苦手だからかもしれません。

今様に「盛る」勇気も加工する開き直りも持てず、素の自分にも自信が持てないままで。

でも最近は無様な自分も残しておくのも悪くない、と思えるようになりました。

 

写真って、撮影者の感情も伝えてくれますね。

シワだらけでくちゃくちゃになりながら笑っている笑顔を撮ってくれた人が、自分を確かに信頼してくれていることがわかる。

もうそれだけで、幸せだなあと満足しちゃうようになりました。

 

でも、やっぱりもう少し綺麗に見えてもいいかな、なんて。

午後、久しぶりに美容院に行ってこようと思います。

 

今日は晴れてとても良い天気。

空気がキーンと冷えてとっても静かです。

先日積もった雪が今日のお日様で溶けちゃうかも、と子ども達はヤキモキしているかもしれませんね。

こんな冬の日が、私は一年で一番好きです。

なおさんの住む茅ヶ崎はいかがですか?

 

では、また!