なぜ対話なのか(なお→みずえさん)

すっかり間が空いて、3月になってしまいました。

変則的になってしまい、すみません!

朝一番の回でアリ・アスター「ボーはおそれている」を見てきました。

この作品も来週には上映終了になってしまいそう。滑り込みセーフでした。

私、この映画すごく好みでした!今週は「落下の解剖学」も見て、これまたすごい作品でした。

刺激の少ない地味な暮らしですが、毎日が発見や価値あるインプットで満ちていて、考えたいことが多すぎて、アウトプットが全然追いつかない、万年便秘気味という感覚が常にあります。

 

日に日に春めいてきていますね。

最近の早朝散歩は、マフラーは巻いて上着は着ませんが、爽やかな寒さです。

散歩がてら願がけしていた上の息子の音楽院の試験は、残念ながら不合格でした。

なにしろ合格枠がたったひとりだったので、家族のみんな「ベストを尽くせー」とハッパをかけつつも、ダメもとかねーと言い合っていました。

ま、仕方ありませんね。

どこかしら別の音楽院には動くでしょう。

 

学校は、縁のあるところに行くものだと思っているし、そもそも「落とすための試験」というものが性に合いません。

希望者が多いから仕方なくそうなるのですけど、ものごとの本質からどんどん離れていく気がして。

そういうものにはあんまり必死になるものでもないなあと内心思っている自分がいます。

 

それにしても、子供の学びを経済的に支えるのは大変ですね。

我が家は日本の音大に行くくらいなら、という感覚で、えいやっと海の向こうに送り出してしまいましたが、生活費も含めると、やはり!それなりに!かかっております。

彼もバイトもして、節約してやってくれてはいるのですが、物価ベースがあまりに違いすぎます。あー日本の没落が恨めしい。

いつまで支え続けられるか分からないから、早いとこ自分のなりの未来設計にロックオンしてもらいたいと親としては願っているところです。

 

 

先日は、雨の中遠くから対話会に参加してくださって、ありがとうございました。

ランチもご一緒できて嬉しかったです。

まさかこんなに早くに再会できるとは、往復書簡のおかげですね。

久々すぎて実は少し緊張してましたが、みずえさんの印象は以前と少しも変わってなかったです。

LINEにも書きましたが、素人が思いだけでやっていることなので、物足りなく思われたところも多々あったかと思います。

貴重なお時間を割いて共に過ごしてくださって、ありがとうございました。

 

対話の後ブログに書いてくれた感想(マウントをかわす魔法 - 流れる星をすくいあげる)が、すごーく面白かったです。

まず、みずえさんが参加した色んな集まりの共通項が面白かった!

おかげでいろいろ客観視することができました。

やはり、あの場のリーダーはNさん(一緒にお蕎麦食べた彼女ですね)だし、補佐役はFさんなんだなあと素直に思うんです。

みずえさんは補佐役を私と思ってああ書いてくれたのかなとも思うのですが、私は気が利かないし、サポートするタイプでもないんですよね。

謙遜とかではなくほんとうに。

 

「なぜ対話を始めたいと思ったのか」という質問の答えにつながるので、もうちょっと書かせてください。

模索中の身で、何が正解か不正解かなんてないんですけれど、あの場の対話が想定していたものかと問われたら、正直に言うと、少し違うかもと思います。

もちろんあの素敵な空間で心優しい聡明な人たちと深い話ができることが毎回楽しみですし、あの場でいろいろ試行錯誤してみたいこともあります。

ただ、ハレーションは少ないといいますか。

あの場に集う人たちは皆、みずえさんがおっしゃる通り物分かり良く、教養があって、すでに相当言語化も価値観の体系化もできているような人たちが多いのですね。

さらに、スピリチュアル的な感性や能力が高いか理解が深く、そういう分野に対する偏見がない人たちでもあります。

それはあの場を提供してくださっているFさんの人徳ゆえですね。

共通項が多い人同士でも、人は一人ひとり違うので、対話の面白さや学びは当然ありますが、相当「了解しあっている」という共感ベースが会話を下支えしていることも感じます。

 

 

夫が長年ドキュメンタリー映像の業界に身を置いていて、社会正義や環境や差別といったテーマの作品に関わることが多い中、そういう映像作品がどうしても「分かってる人、その問題に関心の高い人」の間だけで消費されがちなことを、常々どうなんだろうねと話してきました。

むしろ重要なのは無関心だったり、そういうものにアクセスする時間や心の余裕のないような人たちなのにね、と。

多くの自主上映ドキュメンタリーだったり、特定の分野の講演会や勉強会といったものが、すでにその問題をよく学んで理解している人同士が共感的に集う状況を超えた機会をなかなか提供できていない。

時々、その高い壁を越えるスマッシュヒットも出てくるのですが、多くはありません。

 

社会の分断の状況にもいろんなことを思います。

コロナ禍とそれに伴う経済の急速な低迷が、より人々の、あらゆる「違い」に対する脊髄反射的な拒絶を鮮明にしたと思います。

個人レベルから国レベルまで、考えの合わない他者を、お互いに「頭おかしい」と言い捨てるか、正しさを主張して攻撃し合うか、すぐに諦めてシャッターを簡単におろしてしまう。

あるいは力の強い者が暴力的に他者の意見を無視して強引に自分の考えを押し通す。

SNSの世界では、人によって持っているリアリティーが呆気にとられるほどかけ離れていて、互いにどこから取っかかりを見つければいいか途方に暮れるほどです。

娘が学校に行けなくなった理由はいろいろですが、先生になにを尋ねても訴えても、言い方は違えど要するに「意味を問うな、黙って従え」と言われ続けたこと、スクールカースト的価値感の子供同士の競争的な関係、ご飯もゆっくり食べられないくらいの多忙さなど、対話を拒絶するような空間だったことも大きな理由の一つだったと思います。

 

つまり、価値観や世界観が違う人たちが会して、「ちょっとだけ違いを乗り越えてみる」「相手の立場に思いを馳せてみる」「自分の常識を疑ってみる」みたいな経験が、まず自分が経験不足だし、世の中にも圧倒的に不足しているように思える。

そういうことをケンカになることなく安全が守られ、気楽に試してみることができる小さな場所を私は作ってみたかったのだと思います。

大人も子供もえらいも強いもなく全員が平等で、極端なことや間違ったこともどんどん臆せず、まとまらないままどんどん喋る、全然いいこと言おうなんてしない、そんな気をつかわない実験場みたいな感じ。

 

そうは言っても、実際には難しいです。

ぎくしゃくしたり分からなかったり、もやっとする他者と出会ってわざわざ話したいって、人はなかなかなりませんから。

対話に参加してもらうにはそれなりの必然性やより明確なイメージというものが必要になってきます。

どういうモチベーションを提示できるだろう?とつらつら考えています。

今はまだ、ひよっこすぎて、そんな感じなんです。

だから、調和を乱して申し訳ないみたいにみずえさんは書かれていましたが、調和を乱す人こそいて欲しいです、切実に。

むしろ、自分が率先して乱したいと思っています。

蕎麦屋でも話しましたが、自分が一番格好悪く、弱さをさらすことで、安心してもらえたらと思っています。

 

私もみずえさん同様、人が怖いです、とりわけ集団が怖いです。

でも、自分を自分だけで変えることは私にはできなくて、他者(人間だけとは限りませんが)との出会いや関わりによって変化していくという思いはずっとあり、その割に友達が少ないので、だから対話に関心が向かったのかもしれないです。

むしろ勇気の反対なんです、自分にとって安全な場を作ろうと思っただけで。

でもだからこそ、誰かが気まずかったり悲しい思いをすることがない場にしたいということは強く思っています。

 

みずえさんは「共生」という言葉に惹かれているということでしたが、「他者との違いを乗り越え共に生きる」ために、どんな考えをお持ちですか。

やはり一番身近な他人ってパートナーだと思うのですけど、夫さんとの違いにどう向き合っていますか。ぜひ聞いてみたいです。(いきなり核心)

立ち入った話で今はまだ、ということでしたらまたの機会で全然大丈夫です。

 

 

ああーまた長くなってしまいました。

長島さんについてはまた折に触れて他で書かせてもらおうと思います。

これにて一旦バトンをお渡ししてもいいでしょうか?

推敲もせずに、勢いでアップさせていただきます。

 

春は何かとばたばたする季節ですので、お時間の余裕のある時に。

 

 

2024.3.1.なお