みずえさん
こんにちは。毎日危険な暑さですね。地球沸騰化、まさに。
7月に入って農園での仕事がかなり過酷になり、先週は熱中症が3人出ました。
慌てて建設現場の作業員さんがよく着ているファンベスト(空調服)を買いました。
ムッシュ・ビバンダムみたいで恥ずかしかったのですが、背に腹は変えられません・・・!
先日知人が、「夏の日中に屋外に出られなくなるまであと5年だなと思う。10年くらいはもつかなーと思っていたけれど、これはもたないね」と言っていました。
そうなると、また人々のライフスタイルが大きく変わりますね。
いろんな意味で、私たちは今過渡期にあるなあと実感しています。
みずえさんの都知事選に対する見方、共感しながら読みました。
確かにもうずいぶん前のことみたいですね。
まだひと月経っていないのに!
これが今の世の中のスピード感なのだなあ。
私たちは、次から次へと絶え間なく目移りしながら、思うよりずっとすごいスピードでいろんなことを忘れていっているのでしょうね。
石丸氏に関して言えば、選挙直後のバッシングの嵐はもう過ぎたみたいに、今はあちこちのメディアに出まくっていて「あれ、わりといい人じゃん」キャンペーンが始まったのだなあと白けた思いで見ています。
そのうち維新の議員として、時代遅れの新自由主義のスポークスマンとなるべく、国会を目指すのでしょう。
演説中のトランプ氏が銃撃されて支持率が爆上がりし、バイデンが降りてカマラ・ハリスが出馬を表明し、アメリカの大統領選もざわついていますが、日本でもアメリカでも、あまり変わらないんだなと思います。
表面的な印象でその人の全てを分かったような気になってしまうさまが。
その人が実際に何をしてきたのか、どんな意図を持つか、リーダーになったらどう行動するのかより、何の確約もないスローガンや見た目の印象に関心が集まる。
感じがいいとか悪いとか。余裕があるように見えるかどうかとか。
判断に資する客観的な情報を得る難しさを差し引いても、たまたま目にした時の印象だけでものごとをジャッジすることに躊躇がないことは、あやういと感じます。
印象に一喜一憂して、目先の餌を追ってどわどわーっと右へ左へ移動する動物の群れみたいなことになっている。
確かに表面的な印象のインパクトはとても強いものですが、せめて「私たちはたやすく印象に引っ張られがちだ」ということに対する一抹の自省は必要な気がします。
蓮舫さんについては、生理的な反発感情が大きいように私も感じます。
発言内容よりも話し方や態度が批判の主眼になっている、典型的なトーン・ポリシングですしね。
印象が全てという態度がここにもあらわれているといえます。
小泉今日子さんも言っていた「声を上げる人をしょんぼりさせて、小さくさせようとする意地悪な空気」もあると思う。
もちろん中には正当な批判もありますが、彼女の「態度」へのバッシングは聞くに値しないものだと思います。
と、自分のことを棚に上げて偉そうなことを書きました。
世界の片隅で地味に異議申し立てをしてみたところで、良い印象を植え付けることができた人が総取りする今の社会のメインストリームのあり方には、小さな個人は抗いようがないとも感じています。
多くの人が印象に訴える戦略を立てて勝ち抜こうとしているさまを、やだなあ、でもなるようになっていくのだろうなあと思ってじっと眺めています。
せめて、自分自身はそういうものたちから距離をとって、「自分がどうありたいか」に従って、なるだけ平らな心持ちで生きていきたいものです。
娘さん、受験なのですね。
暑い中でのオープンキャンパス、お疲れさまです!
私は子どもたちの大学受験をまだ経験したことがないのですが、周囲の友人知人を見ていると、今の大学入試は親も子も調べることややることがたくさんあって、心身と経済に大きな負担がかかる一大イベントだなと感じます。
それにしても、日本の大学の状態にかなり失望してしまったと書かれていたけど、日本の大学は一体どんなことになっているのでしょうか?
みずえさんが感じたこと、ぜひシェアしてほしいです。
私自身の古い体験に基づけば、大学での学びは、高校までの教育と同様な部分もあったけれど、それなりに豊かなものだったと感じています。
私は大学に入って初めて勉強を面白いって思えました。
もっと早くに学ぶってこういうことだと知りたかった。
大学の授業料が年々高くなり、就活の前倒しなど問題も色々あるけれども、学びに関して言えば、高校までよりは良いものと個人的には思ってきたのですが。
実際のところどうなんでしょうか。
学校教育について、ぜひ話してみたいです。
何しろ、高校までの学校が結構トラウマ級だったので・・・。
以前ブログにも書きましたが、私が通った小中高校はかなり暴力的で抑圧的な環境でした。
でも、学校さえもっと良ければ、ということでもなく。
苦しんでいる子供の私よりも、学校のありようの方が正しいという前提に立つあらゆる大人たちや社会に対する不信と怒りが、ある意味致命的なものだったと思います。
あれをおかしいことだとは言わせてもらえず、自分を責めるように促される環境にあったこと。
おかげで、私は「権威」や「普通」みたいなものを真に受けない、ある種の開き直りのようなものは獲得したかもしれません。
ただ、自分が暴力的な学校環境でいかに損なわれたかをいつまでも考えていたいわけではなくて。
今考えたいのは、もっと私たち自身のことです。
大学生の頃、中学3年の時の同窓会があったんです。
私は中3の時にいじめに遭っていたし、良い思い出は何もなかったのですが、いい加減乗り越えたいなと思って、思い切って参加しました。
それで、すごくびっくりしたんです。
かつての同級生たちが、学校を私ほどは辛いと感じていなかったらしいということを知って。
あんなに暴力的で抑圧的な環境にあったのに、「楽しかった思い出」「『恩師』の話」を皆が笑顔で話しているのを、呆然としながらなんとか相槌を打つ、ということがありました。
毎日罰されているように感じてきたあの苦しい時間とは、まぼろしだったんだろうか?
それとも、私のものごとの感じ方が著しく歪んでいるのだろうか?
その時抱いたシュールなまでの違和感は、私にとってずっと重要な何かであり続けました。
最近、その答えの一端を示してくれる本に出会いました。
「コロナ禍と出会い直す 不要不急の人類学ノート」(磯野真穂著)です。
この本の中で、フーコーのある論考が紹介されています。
ヨーロッパでは、18世紀まで罪人の刑罰は四つ裂きの刑などの身体罰だったのが、徐々に廃止され19世紀半ばには消滅する。
代わりに生まれたのが、刑務所。
罪人をひとつ所に閉じ込め、朝起きてから夜寝るまで一挙手一投足を細かく規則化し、監視することで「更生」させることを目的とする。
当時の社会では、刑務所は野蛮な暴力からの人間的な思いやりと温かみのある「進化」だと受け止められていました。
けれどもフーコーは、この変化の本質は思いやりなどではなく、懲罰が身体から精神に移行しただけだと喝破します。
刑務所の更生プログラムが生まれたことによって、規律型の権力に従わせることは人の精神に深い影響を与え、ある意味において人間を作り替えることができるのだ、ということに権力は明確に気付いたのだといえます。
細かく意味不明で絶対的なルールと、分刻みのスケジュールで人を管理する。
そうすることで、(支配者に都合の良い)特定分野で高い能力を身につけた、高効率で生産性の高い人々をつくることができる。
無思考的に命令に服従し、秩序に従属する人々をつくることができる。
20世紀の初めに第一次世界大戦があり、日本でも明治維新によってそれまでの寺子屋、私塾制度を廃止し、近代教育改革をしたことは、この「発見」と無関係ではないと思います。
近代の軍隊制度や、工場や、教育システムは、刑務所システムの応用ですから。
もちろん学校は懲罰ではないですけど、少なくない公教育が更生プログラムベースのカリキュラムを採用しているということは、分かっておくべきことだと思います。
どれほど「あなたのため未来のため」を枕言葉にしようが、個々の教師が善人であろうが、この制度が採用されている以上、「支配する者(社会)にとって都合の良い人間を作る」ことを、公教育は自ずと目指すことになるのだということを。
規律型の権力に一定期間従属すると、人はやがて疑問や違和感を抱かなくなり、ルール内で活動することを楽しむようになる。
それが「優良で賢明な生き方」だと周囲にも評価され、より快適になる。
そのようにして、人は長いものに巻かれていく。
それが学校に限らずあらゆる集団における「世間」のひとつのありようなのだと思います。
「世間」の要請を真に受けて、自分の感じ方さえ世間にとって望ましいものに無自覚にスライドすることができた時、あの中学校のありようも、自分を育んだ愛すべき学び舎だと感じられるのかもしれません。
著者は、日本は規律型権力がきわめて強い社会であり、それに人々が相当順応しているからこそ、コロナ時に罰則なしの自粛ベースの感染対策がこれほど成功したのだし、自粛警察があらわれたのだし、国民の自由を制限する緊急事態宣言を発出しない政府を国民自身が批判したのだ、とコロナ禍を分析しています。
人に迷惑をかけるな。
ルールはルールだから正しい。
これらの言葉は今の日本では、まるで道徳のような響きを帯びています。
こうしたことをすっと受け入れられる人々と、あの中学校を肯定的に受け止められる人たちが、自分の中で重なって見えます。
そして、個々のグラデーションはあれど、この国ではそういう人は、思うよりずっと多いのだろうと思います。
私は小中学校の時代には、もちろん深いことなんて何も考えていなかったけれど、ただただ苦しく憂鬱で、抵抗したりサボタージュしたりしては、「強い者」に威圧されたり排除されたりして絶望していた。
高校は、もはや参加してなかったですし。
実家の家族でも私だけが異質で、理解もされなかったし、責められたりどつかれたりしました。
でも、今はもう昔のようにそんな自分を責めることはありません。
ぼっち人生ですが、それでまいっかと思います。
自分の感情までも権力に乗っ取られていることに無自覚でいるよりはいい、と堂々と言える。
もう極力学校のことは考えまい、と子供の学校生活にもほぼ介入することなく生きてきましたが、娘が中学1年で学校に行くのをやめたことを機に、また学校について深く考えるようになりました。
で、今こういうことを考えながら幼児を育てていると、公立の小学校にあんまりわが子を入れたくないなという気持ちに当然なっていて、お金もないのに困ったな〜と思っているところです。
さて、3年後に我が家は、どんな選択をすることになるのでしょう。
上の息子や娘は、何かを学んでいるのかはたまた働いているのか、それ以前にどこに住んでいるのか?
半年先のことも分かりませんし、基本は、今、彼らがやりたいことを一緒に盛り上がって応援するだけです。
そして、学校に背を向ける子どもが増え続け、少子化も相まって、学校もまた大きな過渡期を迎えている。
近いうちに制度が大きく変わることもありえるなと思っています。
ただ、良い変化はもちろん歓迎すべきものだけど、別に変化に希望を託すような気持ちでもありません。
いずれにしても規律型の権力は社会の至る所に存在するもので、それから逃げ続けることは不可能である以上、こうしたものへの処し方を私自身がもっと明確にすることが、今大事なことなのかなあという気がしています。
それが自分のみならず、子どもたちを守ることにつながると思うからです。
今回も長くなりました。
堅苦しい話が続いて、申し訳ない。
熱中症に気をつけて、援農楽しんでください。
ほんと、もっと近所ならいいのに、ちょっと遠いですよね。
でもその小旅行感がリフレッシュ的にはちょうどいいのかもしれませんね。
私も仕事が楽しいことであり続けられるよう、自分を労わりつつやっていきたいです。
それでは、また!