就活ってなんだ(なお→みずえさん)

みずえさん

 

8月の最後は台風で家にこもる日々になりましたね。

私も今年はいつも以上に地味、というか日常モードの夏休みでした。

 

娘のこと、いつも気にかけてくれてありがとうございます。

帰国してひと月が経ち、もうすっかり普段の暮らしに戻っています。

人に会おうにもお金がないと電車に乗れないので、そろそろバイトを始めないと、と探し始めています。

彼女は今回、フランスとイタリアに行ったのですが、いずれも公共交通機関がとても安価で乗り放題か無料だったことに驚いていました。

そして普段の暮らしの中で、電車に乗れないことがいかに自分の経験が制限しているかを改めて認識したそうです。

社会システムや空間デザイン、人々のファッションや異なる価値観やコミュニケーションのあり方、ジェンダーや差別、政治や宗教への向き合い方の違いなど。

短い日々の中でも学びは色々あったようで、折に触れて彼女なりの考えを話してくれます。

ただ、日本との違いよりも、彼女にとってとりわけインパクトがあったのは、「日本を出たとて変わらなかったもの」への気付きだったようです。

人が生きて暮らしていくっていうのは存外シンプルなことであり、同時に甘いものではない。

ものごとの本質や生きる上で大事なことは、どこで生きようとあまり変わらないし、自分の人生は自分でなんとかするしかない。


そういうことを早いうちに肌で実感しておくことは良いことのように思うので、無理して送り出して良かったなと思います。

 

昨夜、息子ともLINE電話で話したんですが、この先もヨーロッパを拠点に生きていきたいという思いを初めて告げられ、「ふーん」と普通そうにあいづちを打ちながらも、小さく胸が詰まりました。

ああもうこれからも一生、ほぼ会えないままの人生になっていくのかなあと思いました。

2年前の辻堂駅で手を振って別れたあの時が、家族からの卒業になったんだなあ。

その時はそんな決定的なことだとは思ってなかったんですけどね。

子供が巣立つ時ってそういうものかもしれませんね。

 

でもまあ、十分予想はしていたことでした。

一度送り出したら、多分帰りたくないってなるだろうな、と。

ただ、周囲の友人知人では、最終的にはビザなどの問題で帰国せざるを得なかったケースも少なくありません。

だから息子にも、甘っちょろい考えでは到底難しいことだよ、とハッパをかけておきました。

我が家の子どもたちの今年の夏は、そんな感じです。

 

 

みずえさんのお子さんたちは、進路のことで忙しい日々ですね。

二人ともが節目の年に当たるなんて、親も何かと慌ただしいでしょうね!本当にご苦労さまです。

娘さんの「私は会社に勤めるために勉強をするんじゃない」という気付き、とても大切なことだと思います。

効率や費用対効果や年収にどうして惑わされてしまったのだろう、と書かれていましたが、こんな世の中にあっては、誰もが惑わされると思いますし、私もめちゃくちゃ惑わされます。

資本主義的価値観であらゆることが語られる中で、正気を保つのは容易なことではないと思います。

気がつくと本質から逸れているから、そのたびに反省しながら、何度でもintentionを自分の心に問いかけ続けるしかないのかなと思っています。

 

息子さんは就活で苦戦されてるとのこと、しんどいですね。

就職課に勤務されていた知人の方の話、共感しながら読みました。

私はライターの仕事をしていた時に、進学・就活支援企業の案件を結構やったのですが、その時につくづく思ったことは、就活って、いろんな必然性があってそのように時間をかけて作り込まれてきたのだとは思いますが、かなり不完全で偏った、独特な制度だということです。

何よりも、就活するにせよしないにせよ、個人が了解しておかねばならないのは、いわゆる就活って、基本的には都市圏にある大きな企業にとっての利益のために作り込まれた一種のビジネスモデルであり、個々の若者の将来や幸福のために存在するものではない、という身も蓋もない事実だと思います。

 

就活というプラットフォームに大学生たちをはめ込んで、特定の情報提供・行動形式を促すことで、知人の方が言われる通り、都市にある大企業が人材を誰より優先的に囲い込む形を作ることができる。

専門職を志す人はこの限りではないと思いますが、本当は全国津々浦々にたくさんの会社があって、多彩な職業があって、次世代の担い手を求めている人々もたくさんいるのに、就活をしていると都市圏のそこそこ以上のサイズの企業しか存在しないみたいにだんだん思えてきます。

就活という枠組みの中にすっぽりと入り込んでしまうことで、多くのもの、多くの可能性が不可視化されているように私は感じていました。

こんなきわめて限定的な価値観の中で四苦八苦して、落とされれば「自分は社会に必要とされていない人間なんだ」と自信を失うのは、若者にとって無益どころか有害でしかないと思うし、逆に名の通った有名企業に無事採用されたら就活に勝利、みたいな感覚もなんか違うなと思いました。

 

こんな風に就活を乗り切って、素晴らしい職を得たという「先輩社員」に就活学生向けのインタビューをしたことも何回かあります。

とにかく名の通った企業に採用されるために、何百というエントリーシートを書いて書きまくって、新幹線に乗って東京、大阪、名古屋と日夜移動しまくり、それでも5次(!)面接で落とされたりなどしながら、とうとう1000人受けて10人採用の大企業に採用された、という就活ストーリーを誇らしげに語られて、素直にすごいなあと思う反面、当惑もしました。

その人にとっては、大きな苦労を気合いと努力で乗り越えたこと、押しも押されぬ大企業に選ばれたことが生きる上での大きな自信になっていて、就活はその方にとって大事な人生経験だったのだろうと思います。

確かにその企業は、福利厚生も充実して離職率も非常に低くて、こんな恵まれた会社で働いている人もいるんだなあと思いましたし。

 

でも、就活ってなんて狂ってんだろうってすごく思って。

もちろん、みんながみんなこういう就活をしている訳ではないし、今は10年前とは違って売り手市場で、どんどん転職しながらキャリアアップする若い層も増えているようなので、一概には言えません。

ただ、そこまで低い合格率の切符を手にするまで、何度落とされても学業やその人のやりたいことを放り出して必死に新卒採用試験を受け続けるってことが普通かつ必要なこととされていることに、当時から強い違和感がありました。

 

会社に入るって、そんな死ぬような思いでやることなんだろうか。

てか、その努力の方向性もちょっとずれてる気がする。

会社が人を採用する基準なんて企業個別の都合でしかなく、そもそも頑張りの問題ではないし。受験じゃないんだから。

それこそどこかで完全にintentionが見失われている気がする。

 

学生がどれだけ就活に消耗しようと損なわれようと、どれだけ就活が長期化して学業に支障が出ようと、やって来た人の中からピックアップする側の企業は別に関係ないですから。

高条件の職を得るのが大変な状況を作るほど「こんな自分を採用してくれたんだから」「他はないんだから」大抵のことは我慢して受け入れなくては、という思い込みも生まれて企業は好都合かもしれない。

 

就職試験が能力を見出すためのものではないというのも、その通りだろうと思います。

ペーパーテストは多すぎる希望者をまずはふるい「落とす」ためのものだし、優秀な人材が欲しいとは言っても、まだ何の社会経験、実務経験のない若者に対して現場での能力なんて、はっきり言って分かりようがありません。

何度も重ねられる面接は、知人の方の言うように、どこまで従順な社畜になってくれる見極めの意図が少なからずあるのだろうと思います。

 

以前は、全員がクローンみたいに似通った就活スーツを着て「他にないあなただけの個性をアピールしてください」だなんてまるでギャグみたいだって憤っていたものですが、ある意味就活の本音をとても分かりやすく伝えてくれているなとも思うんです。

取材した学生に、アパレル企業の就活スーツって、すごく難しいのだと聞きました。

他とはちょっと違う垢抜け感は感じさせなければならないが、かといって逸脱感はけして与えてはいけない。その微妙な塩梅を探るのが難しいんだって言っていました。

なんか考えただけで気が滅入る話でしたが。

学生も求められているもの、見極めようとされているものを肌で感じているのですよね。

 

以前、思想家の内田樹さんが日本においてマジョリティーの学校制度を全うし、そこで良い成績を修め卒業することは、「その人が一定の従属的なマインドセットを持つ人間である」ことの証明を意味している、とエッセイに辛辣な論調で書いていました。

 

今の公教育では、例外や程度の差はありますが、12年間もの間、子供たちは校則や部活やさまざまなタスク、受験制度に従うことを求められながら多忙に過ごしていきます。

ルールや学ぶことの意味や意義を教師に問う子供は、低く評価されたり厄介者として排除されたりする。

うちの娘がそうでしたが、本質的な問いに向き合ってもらったことも、褒められたことも、まあありませんでした。

私が子供だった頃のように叱責されたり暴力を振るわれたりすることはさすがになかったけど、説得され、諦められ、最終的には穏便にいない者として扱われていました。

多くの学校では、何も聞かずに黙って教師の指示に従う学生だけが受け入れられ、評価されます。

このような教育のあり方は、社会の集合意識の要請を受けたものなのだと思います。

実際、企業は理不尽で無意味な業務命令にも、疑問を持たず質問もせず、無批判に従ってくれる人をまさに求めているのだから。

 

そして、学校制度に背を向けた娘や不登校の子供たちは、だからこそ自分は社会から失格と言われているように感じ、罰されていように感じ、自分を責め悩むことになるのでしょう。

表向きどれだけ物分かりの良い言葉をかけられても、子供たちにとっては気休めでしかなく、彼らは社会の本音を深いところで感じ取っているのだと思います。

 

だったらもう、イエスマン上等、イエスマン万歳ってなるしかないんでしょうか?

でも、イエスマンでないと採用されないし出世もできないのが当然みたいな世の中になったことで、日本企業は競争力を失い経済は低迷し、政治もたがが外れ、不正や隠蔽が横行している。

イエスマンて、ハンナ・アーレントの言うところの凡庸な悪であり、社会全体にとってけして良いものではないはずです。

何よりも、ひとりの人間として、納得性をもって幸せに生きる道ではないですよね。

でも、イエスマンにならないと日本企業に居場所を見出すのは相当難しいという現実との板挟み状態があると言う現状もある。

若者は生きづらさを感じて当然だなと思ってしまいます。

 

今の世の中では息子さんのような正直な人柄は不器用とされ、少なくとも、就活上は便宜的にイエスマンを装う必要を感じて、そのように器用に振る舞おうとする人は多いのだろうと思います。

今の職場の同僚で、元人事部だった人がこんなことを言っていました。

「採用される履歴書と落とされる履歴書ってひと目で分かるんですよ。

 採用される履歴書って、ストーリーがあるんです。

 スペックの羅列だけで取りとめがない履歴書って、引っ掛かりがないというか、判断のしようがなくて、とりあえず脇に置かれてしまう。

 業種や職種にもよりますが、学歴の優劣よりストーリーの強固さの方が強くアピールするのは間違いない傾向だと思います」

ストーリーって、要はこんなことです。

子供の頃からこんなことが好きで習っていて、こんな成果を出して、そこから派生してこんな専門に興味を持つようになり、それゆえこんな進路を選んでこんなことを学び、それを生かしてこんな活動をし、その中でこんな仲間や師との出会いがあって、さらに広げて深めて・・・

そういう、ある種の分かりやすい辻褄のことらしいです。

その人が何者であるかを自ら分かりやすく規定するのですね。

本当は人間はそんな単純なものではないに決まってるのですが、小さな嘘も含めて、スムースなストーリーラインを自己演出するんです。

 

就活を一種のビジネスモデルと書きましたが、採用って労働力を買うということなので、何か分からないものを買うことを決めるのは人間心理として難しいですよね。

だから、「この人こういうことにはまりそう、あんなことに役立ちそう」みたいなイメージのしやすさって結構大事なんだろうと思います。

100均のお店に行った時に、この隙間にこれがぴったり入る、あの用途に使えそう、って思ったらそこまで必須でなくても買いたくなっちゃう、みたいな心理にどこか近いと言いますか。

 

さらにその人が言っていました。

「実は私、一旦面接まで行けば落とされたことって一回もないんです。

 私をまさか落とすなんてばかなことはしませんよね、っていうような強気の態度で臨むのがポイントで」

 

はーなるほどーといたく感心しながらも、就職試験なり面接なりで勝てる人と実際の実務能力って、かなりかけ離れたことになっちゃうんだな、と思いました。

人間が人間の能力を正しく見極めて判断するなんて所詮限界があるから、いかに「買いやすい」「買わないと損」っていう気分を相手に持たせるか、みたいなことに長けている人が得するみたいなことになっちゃうのか。

やっぱり採用不採用って人間性には何の関係もないことだな、と改めて思いました。

 

そして、昭和の家族的・年功序列の企業経営の風土が失われてしまった中で、企業が労働者を何の保証もなく使い捨てにするのだから、労働者も義理人情もなく即時判断するようになるのは当たり前です。

結局あらゆる意味で、就活って狐と狸の化かし合いみたいなことにならざるを得ないんですよね。

 

真に受けてしゃかりきになるような値打ちは、就活にはないと思います。

とはいえ、就職口は探す必要があるので、条件などもあるかとは思いますが、基本はあくまで自分軸で、生活の大半の時間を捧げるにあたって苦にならないことをマイペースに探す中で、良い出会いがあると何よりですね。

 

 

就活についてはかねてからいろいろ思うことがあったので、またまた長くなっちゃいました。

 

もう9月に入ってしまいましたが、海で焚き火しながらの対話会、日時のご都合ついたらぜひ来てください。久々に直接会って話したいです。

(この往復書簡、ほとんど誰も見ていないと油断しながら好き放題書いていますが、9月19日(木)18時〜20時くらい@神奈川県辻堂海岸某所で対話会をやります。興味があれば老若男女どなたでも。申し込み、問合せは下記インスタDMより)

https://www.instagram.com/takibi_dialogue/?hl=ja

 

何でも話すって意外に広すぎて難しいという意見もあったので、読書会形式も一度試してみたいと思っていて。

ミヒャエル・エンデの「モモ」を少しずつ(1〜2章ずつとか?)読んで語り合うとか、どうでしょう。

良さそうな課題図書があればぜひ聞かせてください。

 

最近、こちらからテーマを投げさせてもらうということをしてないように思いますので、私が最近興味をもった事柄をいくつか箇条書きさせてもらいます。

もし気になる、何か書きたいことがあれば言及してもらえればと思いますし、特に興味関心が重ならなければ、別の話題を振ってもらってオッケーです。

返信の時期も、無理なくお気楽に〜〜

 

☆小説家の星野智幸さんが朝日新聞に寄稿したリベラル批判の文章が話題になっていましたが、最近読んだ「日本の歪み」という新書(養老孟司茂木健一郎東浩紀の鼎談)と合わせていろいろ考えさせられました。

 

☆最近の「虎に翼」、どう見てますか?私はかなり微妙なところもあり、いいなーと思うところもありながら見ています。

他には「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」も楽しみに見ています。

 

☆人間は基本的に何かにアディクションして生きているという考え方の「安全に狂う方法」(赤坂真理著)は、最近最も影響を受けた一冊です。

 

村上春樹の「女のいない男たち」を久々に再読したら、昔よりずっと良く感じました。歳をとって人生ってままならないことの方が多いと感じるようになったからかなと感じています。毎晩一編ずつ静かに読むと豊かな気持ちになります。

 

☆「逆転のトライアングル」(リューベン・オストルンド監督、スウェーデン)と「胸騒ぎ」(クリスチャン・タフドルップ監督、デンマーク)という北欧の映画を立て続けに見ました。どちらも基本、胸くそで、ブラックユーモアで、ホラー味がありました。そして非常にアンモラルな感覚があります。

整った、高福祉国家というイメージの北欧の国々から、時々こういう理解に苦しむほど露悪的な作品が作られるのってなぜなんだろう、と謎に思います。

 

☆農園の職場で、すごく怒られているバイトの若い男の子がいて。私にしたら、彼はちっともずるくないし、彼なりに頑張ってるなとしか思えない。

でも、なんか「雑に扱っていい人」みたいになってきていて、何だこれって思って。

気落ちしていて気の毒で。

ただ何というか、一般的な感覚からすると少しずれてるのかもしれないと思うところはあって。発達系かもしれません。

でもそれを言うなら私はどうなるんだ!という話でしかなく。

怒ってる人の言うことも正論ではあります。

ていうか正論がなんぼのもんじゃい。

みんな何かしらのでこぼこがあると思うので、漠然とした「基準」に満たない人を怒鳴ったり、罰を与えたり、排除することで解決するようなもんでもないと思っているんですが、どういうもっと優しくて効果もあるあり方があるだろうって考えています。

とにかく、経営者でもないのに誰かを使える使えないとかって切り捨てるのは、自分の首を締めることとしかに思えず、自らそんなハードルを上げるってなんて自分にも他人にも厳しいのだ、とびっくりしてしまいます。

 

☆姪っ子がジャニオタなのですが、推し活経費が月10万を超えているらしく、そしてジャニーズ以外の何にも興味がないらしく、妹が軽く悩んでいました。

娘はコスプレ撮影を請け負うことがあるのですが、やはりコスプレイヤーの熱さも相当なものみたいです。

オタク的なものが全肯定されることの多い昨今ですが、私も基本は好きずきだとは思うのですが、どこかにモヤっとした感覚があります。

推し活については、もうちょっと自分の考えを整理したいなという気持ちがあります。

 

 

パラパラとまとまりなく書きましたが、何か語れそうなものあるかしら?

それでは、また〜

 

 

なお