絶望についての思索(なお→みずえさん)

みずえさん

 

あっという間にゴールデンウィークも終わりましたね。

本当に桜もあっという間だったし、よく言われることですが春と秋がどんどん短くなって夏と冬だけの国になりつつあることを実感します。

そろそろ扇風機を出しておかなくちゃ。

急に真夏日とか来そうですよね。

 

先月は再び対話会に訪れてくださって、ありがとうございました。

皆さんの話に聞き入っていたら、気付いたら4時間近く・・・!

次からは、もっと早く切り上げるようにしなくては。

さすがに疲れちゃいますよね。

終わった後に昼ご飯を食べる場所も見つかりませんしね。

 

また、娘について随分ほめてくださって。ありがとうございます。

対話の場でFさんは「そんなに自分をマイノリティーだと思わないでいいよ」と伝えてくれていました。

みなさんから娘への真摯な言葉、とてもありがたく思うと同時に、私や夫がどういう風に世界を人間を見ているかということが、どうしても娘に影響されずにはおれないということについて、親の加害性を痛感する時間でもありました。

 

ただ、みずえさんが娘の印象を言葉にしてくださったことで、「そっか、あの子も時代の子のひとりなんだよなー」と少し肩の荷が下りた気持ちになれました。

みずえさんが娘について書いてくださっていた賢さ、鋭さ、繊細さ、自己防衛、かたくなさ、諦観といったものは、程度の差こそあれ、私が日頃若い世代に接するたびに感じていることにかなり近かったからです。

 

こと自分の子のことになると、なんでも「親のせいで」となりがちですが、自分の子という枠組みを離れてみると、おこがましい考えだと気付かされます。

ひとりの人を形作っているものは、親の影響はそりゃ小さくはないが全てではなく。

その人本来の性質や個性に加え、時代、社会、文化などを含めた環境や、色んな人との関わり、そして運や偶然といったさまざまな条件が絡み合って、その人を今のその人足らしめている。

 

そう考えると、人が他者の「意識のあり方」を変えようとすることは、そう簡単なことではないように思えてきます。

その人の思想や意識は、その人が生きてきた環境、経験、関係性の結果なのだから、「その人が今在る場所」を見ないままに意識だけを先に変えることは難しいというか、順序が逆なのかなと。

「視点や捉え方を変えたら解決するのに」って、自分も含め、人は思いがちだし言いがちなんですけどね。

 

対話は、私に「自分の考える正しさをどう伝えれば相手に届くか」よりも「なぜその人がそのように考え、今その人がどんな場所にいるのか」を共に考えることの大切さを教えてくれます。

今の世の中では、優れた正しい考えがあり、一方で劣った間違った考えがあると、なんとなく思われている。

でも、果たして本当にそうだろうか?

対話するほどに、私にはいろんな考えがどんどん等価に感じられるようになっています。

もちろん自分にも好みはあり、いいなあと思ったりやだなあと思ったりします。

でも、上とか下とかではないし、誰の方がより分かってるとかもない。

ていうか、誰もほんとうには分かり得ない

それが基本ラインであり、それでもなお相手を分かろうと少し心を寄せてみる、その営みを対話と言うのかなあと。

ま、言うは易しなんですけど。

 

 

みずえさんの文章を読んで、娘や若い世代や自分を含めたこの社会に生きる人々が内包している絶望について、改めて目を合わせるみたいにして考えてみたいと思いました。

その人の意識の問題とかにするのではなく、何が人々を絶望させているのか?ということを。

 

絶望についての思索の糸口として、みずえさんの息子さんの大学の風景はとても示唆的です。

最近、哲学者の國分功一郎さんも、母校のキャンパスで覚えた違和感をSNSで言及していました。

かいつまんで引用します↓

キャンパスはかつての趣きを完全に失っていた。

私が学生の頃、キャンパスの通りの端を全て埋め尽くしていた立て看板は全くと言って良いほどなくなっていた。
かつては立て看で包囲されてよく見えなかった大学創始者銅像の全体像が初めて見えた。

そんな中を歩いていたら不思議な感覚に襲われた。
「あれ?このキャンパスってもっと広かったような…。なんか狭いな…」。どういうことだろう。

(中略)

まず気づいたのは歩いていても何の情報も入ってこないこと。

キャンパス内の情報量が圧倒的に少ない。歩いていても知識が増えない。
当時の無数の立て看はたくさんの情報をこちらに送り届けていた。

こんな活動をやってる奴らがいるのか…。この問題のことは知らなかった…。

いま俺の目の前にはないがどこかで行われている活動、どこかにある問題をそこかしこで表現していた。

(中略)

つまり、立て看は”奥行き”を表現していた。
このキャンパスには、いまここにないものがない。

立て看は、いまここにないものを表現していた。

(2024年4月25日國分功一郎@lethal_notion のTwitterより引用)

 

違う大学ですが、共通するムードを感じます。

私が近年公開授業や学祭などで訪れたいくつかの大学もやはり似たムードがありました。

小ぎれいで無名的でオープンさが感じられない、大企業みたいなキャンパス。

こういう学校は今少なくないのでしょう。

 

一見、隙なく整えられた申し分ない環境のように思える。

しかし、これらのキャンパスに立ち現れているものの本質とは、「実利的に役に立たないものは無駄である」という思想のもと、あらゆる多様で豊かな好奇心や興味を全て「ノイズ」として、一律に塞いでいるさまです。

洗練という上品で穏便そうな体裁で、実際は人間の雑多な生々しさや魂の自由を問答無用の非寛容さで排除しているさまです。

そんなキャンパスにいて、知的好奇心が刺激されるようなわくわくとした気持ちになれるものでしょうか。

 

学生たちが絶望し途方に暮れているように見えた、とみずえさんは書かれていました。

彼らの姿からは、たとえ学校での競争に勝利して、最高学府の学生になれたとしても、少なくとも「ヒエラルキーの頂点に立った満足感」や夢いっぱいの未来は感じられていないらしいことがうかがえます。

全てを投げ打ってたくさん努力して勝ち取った環境の中にいるはずなのに。

 

絶望の対義語は希望ですが、希望ってどうしたらもてるのでしょうね。

日本の出生率が最高だったのは1945年〜1950年でした。

戦争に負け、焼け野原の中で、人々は極貧状態だった。問題は山積していたはずです。しかし人々はつがい、どんどん子供を作った。なんと今の4倍もの出生率だった。

死への不安と恐怖から解放されたことは何よりの大前提ですが、このことを考えると、暮らしにまつわるさまざまなネガティブな条件そのものは、希望においては副次的なものなのだと気付かされます。

国家権力からの支配や抑圧を受けず、言いたいことを言い、やりたいように主体的に生きられる。

貧しくとも平等感があり、これからの未来は良くなっていくと信じられる。

これらは逆説としての希望の条件ということになるのでしょうか。

 

今、私たちが生きているのは情報監視社会。町のいたるところに監視カメラが設置され、あらゆるプラットフォームに個人情報を把握され、言論の自由も目に見えて狭まってきており、支配と抑圧に人々は萎縮している。

若い人々においては、10代〜20代の若い日々丸ごとを厳しい競争の枠組みの中で過ごし、他のことはほとんど何もできないほど忙しい。

大人になってからも、必要とされる「人材」であれるよう、絶えず自己研鑽を積み、サバイバルしていかなくてはならない。

ただ生きてるだけでは努力不足で、そこから降りるには、もう病気になるか死ぬしかない、みたいな。

全てが金と権力次第で、平等性や公平性を著しく欠き、社会は30年以上低迷し続けている。

 

なんていうか、この状況で絶望するって当然だなあと思います。

絶望を感じるのは、ひとつもおかしなことではない。

意識の持ちようでポジティブに生きろとか、悲観的だの元気がないだの、勝手なこと言ってんじゃねーと私は思います。

 

お金がなくては何ひとつできない社会なのだけど、モノやサービス自体は溢れているので、人々はこの状況を「豊かで便利」と勘違いしている。

でも、何から何までお金で買わなくては、食べることも座ることも移動することも人に優しくしてもらうこともできない状況は、本当はむしろ「世知辛い上に不便」なのですよね。

しかし貧困から必死に努力したから今があると自負している人々の多い上の世代においては、物質的豊かさイコール社会の豊かさとより捉えがちだろうとは思います。

 

だから、社会に異議を唱えると、恵まれていることに対する自覚がない甘えてるどこまで贅沢なんだ感謝しろって社会から責め立てられることになる。

「つべこべ現状に文句を言う前に、お前はやれることを全てやったと言えるのか?」

だから、個人がどこまでもどこまでもすごくなり続けなくちゃいけない。

そして、それには死ぬまできりがない。

そういうことへのやりきれないしんどさが、人々の無力感の根底にあるのではないだろうかと私は感じます。

 

翻って、日本人より元気そうなアジア圏の外国人留学生が多く見られたというお話。

みずえさんの日本人学生と外国人留学生に対する観察眼、あまりに的を得ていて笑えない話なのに笑っちゃいました。ありありと目に浮かびすぎです。

そして、歴然とした格差の片鱗についても全くその通りで。

私も普段、社会のそこここで圧倒的な経済格差というものを目の当たりにするたび、しばしぽかーんとしてしまうことを思い出しながら読みました。

アジア人留学生が多い理由は、身も蓋もない言い方ですが、今日本が安い国だからでしょう。観光客が多いのと同じで。

「日本いい国、みんな日本が大好き」みたいな情報をメディアは盛んに流すけれど、少なくとも「ここにきて急に人気」の理由は、普通に考えて安さですよね。

 

ただ、校内に駐車された高級車は、おそらく日本人のいわゆる内部生、付属学校からの進学組のものではないかな?というのが私の考えです。

アジアからの留学生は、もちろん貧しくはないが経済的にごく平均的な層の人がたくさんいるだろうと想像します。

シビアに合理的に将来を見据えているアジアの富裕層の子弟においては、今はもう日本の大学で学ぶという選択肢はなくなっていると思います。

 

今、グローバル企業のアジアのヘッドオフィスは、日本ではなく韓国やシンガポールに置かれるようになっている。

大学の教育レベルも、世界の枠組みで見ると日本は急速に存在感を失っている。世界大学ランキングのトップ100に日本の大学は2つのみです。

これほど急速に衰退している国に、わざわざ外国からやって来て、日本で人脈や地盤を作ったり日本語を学ぶことに、彼らはもうメリットを感じないでしょう。

 

夫の留学時代の友人(インドネシアの大金持ち)も、子供が小学生の頃はしきりに日本で娘を学ばせたいと言って、日本の学校のいろんな情報を聞きたがっていましたが、ある時からぱったり何も言わなくなりました。

その子はイギリスかアメリカか迷った末に、アメリカの超エリート校に進学しました。

でも、安くて便利で美味しくて、駐車場の警備員までこんなに礼儀正しい快適な日本は最高だねと言って、旅行ではここ数年毎年のように家族でやって来ます。

 

だから、1980年代〜2000年初頭にかけて、バブル経済の時に日本人が散々海外でやったのと同じことを、今アジア圏の人々は日本でしているのだと思います。

日本の比較的ゆとりのある庶民が欧米留学しまくったように、アジア圏の中流家庭の子弟が日本で安く海外生活を楽しみながら、留学生活をしている。

この30年で見事に立場は逆転してしまった。

 

では、日本にいる外国人は日本人よりも希望でいっぱいなのかというと、あくまで個人的な考えですが、本質的な意味においてはそうでもないように感じます。

気候危機も、戦争を始めとして世界を覆う不穏さも、政治の右傾化も、インターネット監視社会も、新自由主義的消費社会が行き着くところまで来てしまっていることも、パンデミックも、日本だけのことではなく世界共通の問題です。

 

ただ、経済的余裕があると、なんとなくうやむやになることって結構あって、とりあえず能天気に過ごせる人がだいぶ増えるだろうとは思います。

お金に余裕があれば、限られたパイの奪い合いにもならないから、他人に対する干渉も緩んで大らかになる。

経済で全部を解決できるわけではもちろんなく、問題は問題として存在しているのだが、今の日本の元気のなさは経済とはやはり切り離せない。

一億総中流と言われた時代はもう遠く、「お金があればなんでもできるがお金がなければ何もできない」社会の中でがんじがらめになっていて、なんらかのウルトラC的な方法を用いない限り、階級上昇は見込めないという格差が固定された社会。

そして、隅々まで人々を管理し、生かさず殺さずのレベルで厳しく徴税することから誰も逃さないとする自民党政治が作り上げた、息苦しい搾取の構造。

社会構造に絶望的に絡め取られているのに、あらゆることは「努力を怠った」個人の自己責任にされてしまうことへの、絶望。

 

大人たちからいいように利用され、ぎりぎりまで搾取されていることを、若い世代は深いところでよく分かっていると思います。

ルールはルールゆえに正しい、人に迷惑をかけるな、という社会の中で、何かに異議申し立てをして自力で状況を変えることができたという経験をほとんど積んできていない人も少なくない。

だから価値観の異なる他者と分かり合うことへの期待なんてはなから持たないし、内向きになっていくのも何も不思議なことではないように思います。

 

そんな中、社会のメーンストリームの枠組みからあえてずらした場所で、人知れず、仲間うちだけで何かを循環させていこうとする若い人たちの小規模な試みやアイデアがいくつか思い浮かびます。

それが、今の賢くセンスのある若い人たちの見出したソリューションのひとつなんだろうと思います。

彼らは、自らの知性をそういうベクトルで使おうとしている。

 

でも大多数は、この悪循環のスパイラル的状況にやられ放題で、無力感とたたかっている。

こういう状況に対して、私たちはどう抵抗し、いかに希望を見出せるんだろう、と折々考えています。

大したアイデアがあるわけではないのですが、まずは、一人ひとりが今の現状をまっすぐに見つめ、自分なりの言語化をし、呪いを地道に解いていくことが最初のステップなんじゃないかなと私は思っています。

大きな凍てついた岩山を、小さなトンカチで少しずつ切り崩していくように。

 

例えば「私のせいではない」ということ。

「私は私のままで生きていていい」ということ。

人として当然の権利に関して、私たちはあまりに奥ゆかしすぎると思います。

奥ゆかしすぎて、毎日人が死んでるレベルです。

だから、私たちはもっとふてぶてしくならねばならないと思う。

 

 

最近、とても力強い言葉を発している本に出会いました。

アナーカ・フェミニストを名乗る、高島鈴さんという若いクィアによる「布団の中から蜂起せよ」というエッセイです。

引きこもりと鬱の絶望の沼から這い上がって狼煙を上げた、さながら革命家のような凛々しい言葉たちに圧倒されます。

ここには何か、絶望と希望を考える上で大事なものが含まれている。

彼女の言葉の言葉をじっくりと聞きたい、そう思って今読み進めているところです。

 

 

絶望に関して、今思っていることをまとまらないままに書きました。

とりとめないままにお返ししてしまって、すみません。

お返事は、またお時間のある時に、書いたことへの感想でも、別の話題でも大丈夫ですので。

それでは、また。